世界をひとつのまとまりとして考えはじめたのは,いつからなのでしょうか。そして,それはどういう人たちだったのでしょうか。という問いかけから,第5回目の講義がはじまりました。今日もまたわたしの意表をつく,驚くべき視点からの話の展開になりました。それは,まさにわたしの蒙を啓かれるような,感動的な経験でした。
まずは,一番,わたしのからだに響いてきた,きわめて重要だと思われるところから書いておきたいと思います。
アプリオリにひとつの世界があると考えた人たちは,キリスト教徒たちです。この人たちにとっては『聖書』の世界がすべてでした。つまり,世界は神がつくった領域であり,ひとつの完結したものであり,その世界の外にはなにもない,と考えていました。神がつくった世界全体は,人間の経験領域とはまったく別の世界を意味していました。その世界は人間には計り知れない広いひろがりをもっているけれども,それらは有限であると同時に,その境界はあいまいである,とも考えられていました。
こうしてキリスト教徒たちは,神がつくりたもうたものとして,アプリオリに世界を思い描いていました。そして,それが世界のすべてである,と。ですから,新大陸が発見されたとき(キリスト教徒の側からすれば「発見」,先住民からすれば要らぬお節介),ヨーロッパに住むキリスト教徒たちは驚天動地の経験をさせられることになりました。なぜなら,聖書に書いてないことが起きたからです。その結果,世界認識と聖書の記述との間に大きな齟齬が生じることになります。それ以後,キリスト教の権威が大きくゆらぐことになります。
かくして,アメリカ大陸は,キリスト教世界の<外>に忽然とその姿を現します。言ってしまえば,コロンブスという一介の船乗りがインドに到達したと思ったら,キリスト教のいう世界の<外>に飛びだしてしまった,というわけです。グローバル世界を思い描いてきたキリスト教徒のなかから,もうひとつのグローバル世界を導き出すという珍事が起きると同時に,キリスト教的世界観をゆるがし,その権威を失墜させるという,とんでもない事態が引き起こされることになりました。
その結果,なにが起きたのか。それまでのキリスト教世界では,『聖書』による神学的支配が厳然としていましたから,なにかもめごとが起きても,それを解決するための「最後のことば」はローマ教会から発せられ,それに従うことによって一件落着という経緯をとるのが,当たり前のことでした。しかし,そうはいかなくなってしまった,という次第です。
別の言い方をすれば,神学的理念のもとで世界が生まれ,グローバリゼーションが生まれたにもかかわらず,そのグローバル化の衝撃によってキリスト教の権威が崩壊するという,自縄自縛というべきか,自分で自分の首を締めるようなことが起きたというわけです。
こうしたことが引き金となってプロテスタンティズムの運動が盛んになり,ついには,100年戦争とも呼ばれる宗教戦争がはじまります。いつはてるともなくつづく戦争に人びとはほとほと嫌気がさしてきます。
そうして,神の名による戦争は止めよう,という考え方に呼応するようにして主権国家体制が誕生します。つまり,現世的利益が優先するシステムを編み出します。ローマ教会にとって代わって,世俗の王権=国家(state=ある状態)が登場します。そして,世界を決定する言説も,キリスト教の『聖書』から法律へと移行していきます。つまり,神学的支配から政治的支配への移行です。こうして,神の手の内にあった人の生は,神から国家へと移譲され,やがて,ナショナリズムへという流れを生み出します。
こうして,こんどは宗教戦争に代わって,主権国家同士の利害をめぐる戦争が登場してきます。いわゆる近代戦争のはじまりです。戦争となれば,いわゆる兵糧の調達が喫緊の課題となります。そして,どれだけの兵糧を確保できるかが,戦争の勝敗の分かれ目になってきます。こうして,国家のカネのやりくり,すなわち,political economy が重要な課題になってきます。アダム・スミスの『国富論』やジェームス・スチュアートの『政治経済学原理の研究』などの著作が登場するのも,こういう背景からです。そして,国家から分離した「自由競争」にゆだねられた「経済」が活性化していくことになります。
それが,こんにちの「経済至上主義」を生み出し,フリードマンの新自由主義を標榜する「経済」によるグローバリゼーションが世界を席巻することになります。
以上が,世界の「神学的支配」,「政治的支配」「経済的支配」の三段階についての,大急ぎのスケッチというわけです。
ここに書き記したことは,わたしがスポーツ史やスポーツ文化論を考えていく上で,不可欠と思われることがらを優先しています。この他に,じつは,一神教とはなにか,ということについて懇切丁寧な解説がありました。この日の講義の半分以上は,じつは,この一神教の話に終始していました。なぜなら,この一神教によるグローバリゼーションの問題が,いま,わたしたちが「世界」を考える上で不可欠だからです。
わたしの関心事とつなぎ合わせておけば,こんにちの市場経済は,ついに,わたしたちの身体までをも金融化していく,つまり,身体が商品として市場経済の手に委ねられていく,眼を覆いたくなるような現実の進みゆきは,こうした一神教的世界観を無視して考えることはできない,という事情があります。
ですから,今回の講義は,わたしにとっては,なにからなにまで,きわめて重い課題についての深い思考に裏付けられた素晴らしい講義であった,とからだのなかにずしんと落ちてきました。ありがたいことだと思っています。しばらくの間は,わたしのからだの中を唸り音が鳴り響き,駆けめぐることになるでしょう。至福のとき。
取り急ぎ,今日のところはここまで。
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まずは,一番,わたしのからだに響いてきた,きわめて重要だと思われるところから書いておきたいと思います。
アプリオリにひとつの世界があると考えた人たちは,キリスト教徒たちです。この人たちにとっては『聖書』の世界がすべてでした。つまり,世界は神がつくった領域であり,ひとつの完結したものであり,その世界の外にはなにもない,と考えていました。神がつくった世界全体は,人間の経験領域とはまったく別の世界を意味していました。その世界は人間には計り知れない広いひろがりをもっているけれども,それらは有限であると同時に,その境界はあいまいである,とも考えられていました。
こうしてキリスト教徒たちは,神がつくりたもうたものとして,アプリオリに世界を思い描いていました。そして,それが世界のすべてである,と。ですから,新大陸が発見されたとき(キリスト教徒の側からすれば「発見」,先住民からすれば要らぬお節介),ヨーロッパに住むキリスト教徒たちは驚天動地の経験をさせられることになりました。なぜなら,聖書に書いてないことが起きたからです。その結果,世界認識と聖書の記述との間に大きな齟齬が生じることになります。それ以後,キリスト教の権威が大きくゆらぐことになります。
かくして,アメリカ大陸は,キリスト教世界の<外>に忽然とその姿を現します。言ってしまえば,コロンブスという一介の船乗りがインドに到達したと思ったら,キリスト教のいう世界の<外>に飛びだしてしまった,というわけです。グローバル世界を思い描いてきたキリスト教徒のなかから,もうひとつのグローバル世界を導き出すという珍事が起きると同時に,キリスト教的世界観をゆるがし,その権威を失墜させるという,とんでもない事態が引き起こされることになりました。
その結果,なにが起きたのか。それまでのキリスト教世界では,『聖書』による神学的支配が厳然としていましたから,なにかもめごとが起きても,それを解決するための「最後のことば」はローマ教会から発せられ,それに従うことによって一件落着という経緯をとるのが,当たり前のことでした。しかし,そうはいかなくなってしまった,という次第です。
別の言い方をすれば,神学的理念のもとで世界が生まれ,グローバリゼーションが生まれたにもかかわらず,そのグローバル化の衝撃によってキリスト教の権威が崩壊するという,自縄自縛というべきか,自分で自分の首を締めるようなことが起きたというわけです。
こうしたことが引き金となってプロテスタンティズムの運動が盛んになり,ついには,100年戦争とも呼ばれる宗教戦争がはじまります。いつはてるともなくつづく戦争に人びとはほとほと嫌気がさしてきます。
そうして,神の名による戦争は止めよう,という考え方に呼応するようにして主権国家体制が誕生します。つまり,現世的利益が優先するシステムを編み出します。ローマ教会にとって代わって,世俗の王権=国家(state=ある状態)が登場します。そして,世界を決定する言説も,キリスト教の『聖書』から法律へと移行していきます。つまり,神学的支配から政治的支配への移行です。こうして,神の手の内にあった人の生は,神から国家へと移譲され,やがて,ナショナリズムへという流れを生み出します。
こうして,こんどは宗教戦争に代わって,主権国家同士の利害をめぐる戦争が登場してきます。いわゆる近代戦争のはじまりです。戦争となれば,いわゆる兵糧の調達が喫緊の課題となります。そして,どれだけの兵糧を確保できるかが,戦争の勝敗の分かれ目になってきます。こうして,国家のカネのやりくり,すなわち,political economy が重要な課題になってきます。アダム・スミスの『国富論』やジェームス・スチュアートの『政治経済学原理の研究』などの著作が登場するのも,こういう背景からです。そして,国家から分離した「自由競争」にゆだねられた「経済」が活性化していくことになります。
それが,こんにちの「経済至上主義」を生み出し,フリードマンの新自由主義を標榜する「経済」によるグローバリゼーションが世界を席巻することになります。
以上が,世界の「神学的支配」,「政治的支配」「経済的支配」の三段階についての,大急ぎのスケッチというわけです。
ここに書き記したことは,わたしがスポーツ史やスポーツ文化論を考えていく上で,不可欠と思われることがらを優先しています。この他に,じつは,一神教とはなにか,ということについて懇切丁寧な解説がありました。この日の講義の半分以上は,じつは,この一神教の話に終始していました。なぜなら,この一神教によるグローバリゼーションの問題が,いま,わたしたちが「世界」を考える上で不可欠だからです。
わたしの関心事とつなぎ合わせておけば,こんにちの市場経済は,ついに,わたしたちの身体までをも金融化していく,つまり,身体が商品として市場経済の手に委ねられていく,眼を覆いたくなるような現実の進みゆきは,こうした一神教的世界観を無視して考えることはできない,という事情があります。
ですから,今回の講義は,わたしにとっては,なにからなにまで,きわめて重い課題についての深い思考に裏付けられた素晴らしい講義であった,とからだのなかにずしんと落ちてきました。ありがたいことだと思っています。しばらくの間は,わたしのからだの中を唸り音が鳴り響き,駆けめぐることになるでしょう。至福のとき。
取り急ぎ,今日のところはここまで。
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