すもうについてのもっとも古い記述とされる『日本書紀』のなかに,野見宿禰と当麻蹴速の相撲(決闘)の話が描かれていることはよく知られているとおりです。その相撲に勝った報奨として,野見宿禰は垂仁天皇に召し抱えられます。そして,人身供犠の代わりに埴輪を提唱したその論功行賞により土師臣(はじしのおみ)の姓(かばね)を与えられたといいます。以後,土師臣として代々,天皇に仕えることになります。その末裔には菅原道真が登場します。その始祖ともいうべき野見宿禰は「出雲の人」とあるだけで,その出自についての記述はどこにも見当たりません。あるのは天穂日命が始祖である,というだけです。しかし,ここにも大きな謎が隠されているように,わたしは考えています。
なぜ,野見宿禰の出自については明らかにされていないのだろうか。『日本書紀』を編纂した権力の側にとって,なにか都合の悪いことでもあるのだろうか。奇妙なことに『古事記』には野見宿禰と当麻蹴速の相撲の話はひとことも触れていません。それは,いったい,なぜか。そんな素朴な疑問をきっかけにして,野見宿禰およびその子孫とはどういう人たちだったのだろうか,そして,かれの出自である「出雲」とは,その当時,どのように考えられていたのだろうか,という謎解きがはじまりました。
が,具体的な手がかりが見つからないまま,何回も挫折しては,また,やり直すということの繰り返しでした。が,村井康彦さんの『出雲と大和』(岩波新書)が刊行され,眼からウロコの落ちる経験をしました。そして,ふたたび,野見宿禰と出雲の幻影を追ってみようという情熱が湧いてきました。その一端は,すでに,このブログでも書いたとおりです。
が,今回からは,少し趣向を変えて,連続してこのテーマを追ってみようという気になり,「出雲幻視考」と題して,なにものにもとらわれることなく(とくに,アカデミズムの呪縛から解き放たれた立ち位置で),まったく自由に「幻視」してみようという次第です。なにせ,まともな資料もほとんどない神代の世界の話であったり,神話の世界の話なのですから。そうとも言える,こうとも言える,そして,それらが間違っているとも言えない,つまり,さしたる根拠もない世界の話なのですから。これはもう「幻視」するしか方法はありません。ですから,自分でもっとも納得のいく理屈をこねあげ,それに依拠するしかありません。まさに,独断と偏見の世界での「遊び」です。
でも,人がなにかを信じて,わが道をゆく「思想・信条」のようなものもまた,こんな風にして無意識のうちに構築されていくものだ,とわたしは考えています。その意味での,独断と偏見にみちた世界の「遊び」は,きわめて重要だと思っています。この「遊び」のなかでこそ,人は本気で「考える」という営みをはじめるのですから。少なくとも,思考停止に導くようなアカデミズムの呪縛に縛られてしまうよりは,ずっと,ましだと考えています。
なにか,まえおきのつもりが,いつのまにか自己弁護をはじめてしまいましたので,この話はこのあたりにして,本題に入っていきたいと思います。
昨日(10日)は,出雲大社で,修復を終えたばかりの本殿(国宝)にご神体をもどす「本殿遷座祭」が盛大に行われた,と新聞がつたえています。この遷座祭は60年ぶりということで,大きな話題になっています。が,それだけではなくて,伊勢神宮の遷座祭(こちらは20年に1回)と重なったこともあって,なにかと両者がコラボレートするイベントなども企画されていて,情報量が多くなっているのでしょう。でも,よくよく考えてみますと,古代の神さまが社殿を改築して移住するからといって,こんなに大騒ぎをする必要もないようにも思います。そこには,なにか,意図が隠されているように思うのは,いささか考えすぎというものでしょうか。
で,報道によりますと,昨夜の出雲大社には,天皇の勅使をはじめとする約1万2千人の参列者が集まり,荘厳な雰囲気のなかで「遷座祭」が執り行われたといいます。そのうち,8千5百人は招待客,あとは一般の参列者ということなのでしょうか。午後7時すぎには,ちょうちん以外のすべての明かりが消され,暗闇のなかで「遷座祭」が,いろいろに演出されたようです。
総事業費は約80億円。この金額が多いのか,少ないのか,わたしのような小市民には理解できません。が,これだけの金額を集めるのは出雲大社なら,いともかんたんなことなのかもしれません。なにせ,一年に一度は「八百万」の神さまが集まって「会議」をなさる,という伝承が広く知られているくらいですから。世間の神無月(陰暦の10月)は,出雲では「神在月」(かみありづき)といわれるゆえんです。その神々のもとには,それぞれ氏子や垣内と呼ばれる人びとが大勢,組織されているわけですから。でも,それだけでもなさそうな気がします。
さて,ここからがわたしの幻視のはじまりです。天皇の勅使が参列することと「事業費」の問題をどのように考えるか,ということです。なぜなら,『古事記』に詳しく描かれていますように,「国譲り」神話の交渉の段階で,オオクニヌシを祀る社殿を,朝廷が祀る社殿にも等しいか,それ以上の立派なものを建造すること,という条件を提示して,それを受け入れた,とあります。それが「国譲り」の条件だったというわけです。
そのために,一時は,16丈もの高さの社殿が建造された,といわれています。現在の社殿の高さが8丈といいますので,その倍の高さがあったということになります。丈は尺の10倍(10尺)ですから,約3m。その16倍,すなわち,48mの高さがあった,ということになります。そして,これは事実だっただろう,と上田正昭さんは書いています(『出雲──聖地の至宝』,古事記1300年・出雲大社大遷宮特別展図録,P.6~11.2012年)。その証拠に,2000年の発掘調査で見つかった宇豆柱(うづばしら),御柱(心御柱・しんのみはしら),などを挙げています。それらの柱は,3本の巨大の杉の大木を組み合わせてつくられており,その直径は2.7m~3mに達している,といいます。このうちの宇豆柱は,昨年の秋,上野の国立博物館で開催された特別展で,わたしもこの目でみてきました。それは想像を絶するほどの太さでした。
さらに,上田正昭さんは,「雲太(うんた),和二(わに),京三(きょうさん)」の話を,『口遊(くちずさみ)』(源為憲著,970年)から引いて紹介しています。「雲太」とは出雲国杵築明神殿のことで,ここが日本で一番高い建物であったと。つづけて,「和二」(東大寺大仏殿)が二番目,「京三」(平安宮大極殿)が三番目,という次第です。
こんなに大きなものを,ときの朝廷はつくらなくてはならなかった「国譲り」神話の約束とは,いったいどういうものだったのか,とても不思議です。この約束を守らなくては国を治めていくことはできない,なんらかの理由があったということなのでしょう。だとしたら,その理由とはなにか。そして,このことと野見宿禰の相撲とは無縁ではない,というのがわたしの幻視のひとつです。
この大社殿の造営・維持管理の約束が,のちのちの朝廷にとってもとても大きな財政的な重荷になってのしかかっていた,と村井康彦さんも『出雲と大和』のなかで触れています。
こうなってきますと,「出雲」とはそもそもなにものなのか。そして,「大国主命」とはなにものなのか,というとてつもなく大きな疑問が湧いてきます。
その残像が,「天皇の勅使」の派遣でしょう。そして,約80億円という総事業費は,信者の寄進によるものだけではなく,どこか別のところからも捻出されているのではないだろうか,などと余分なことまで「幻視」してしまいます。
なぜ,このようなことにこだわるのか,これから追い追い明らかにするつもりですが,とりあえずは,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』(岩波文庫)と深く共振・共鳴するものがあるから,とだけ答えておきたいと思います。つまり,「魂の欲求」ということです。
今日のところは,ここまでにしておきます。
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なぜ,野見宿禰の出自については明らかにされていないのだろうか。『日本書紀』を編纂した権力の側にとって,なにか都合の悪いことでもあるのだろうか。奇妙なことに『古事記』には野見宿禰と当麻蹴速の相撲の話はひとことも触れていません。それは,いったい,なぜか。そんな素朴な疑問をきっかけにして,野見宿禰およびその子孫とはどういう人たちだったのだろうか,そして,かれの出自である「出雲」とは,その当時,どのように考えられていたのだろうか,という謎解きがはじまりました。
が,具体的な手がかりが見つからないまま,何回も挫折しては,また,やり直すということの繰り返しでした。が,村井康彦さんの『出雲と大和』(岩波新書)が刊行され,眼からウロコの落ちる経験をしました。そして,ふたたび,野見宿禰と出雲の幻影を追ってみようという情熱が湧いてきました。その一端は,すでに,このブログでも書いたとおりです。
が,今回からは,少し趣向を変えて,連続してこのテーマを追ってみようという気になり,「出雲幻視考」と題して,なにものにもとらわれることなく(とくに,アカデミズムの呪縛から解き放たれた立ち位置で),まったく自由に「幻視」してみようという次第です。なにせ,まともな資料もほとんどない神代の世界の話であったり,神話の世界の話なのですから。そうとも言える,こうとも言える,そして,それらが間違っているとも言えない,つまり,さしたる根拠もない世界の話なのですから。これはもう「幻視」するしか方法はありません。ですから,自分でもっとも納得のいく理屈をこねあげ,それに依拠するしかありません。まさに,独断と偏見の世界での「遊び」です。
でも,人がなにかを信じて,わが道をゆく「思想・信条」のようなものもまた,こんな風にして無意識のうちに構築されていくものだ,とわたしは考えています。その意味での,独断と偏見にみちた世界の「遊び」は,きわめて重要だと思っています。この「遊び」のなかでこそ,人は本気で「考える」という営みをはじめるのですから。少なくとも,思考停止に導くようなアカデミズムの呪縛に縛られてしまうよりは,ずっと,ましだと考えています。
なにか,まえおきのつもりが,いつのまにか自己弁護をはじめてしまいましたので,この話はこのあたりにして,本題に入っていきたいと思います。
昨日(10日)は,出雲大社で,修復を終えたばかりの本殿(国宝)にご神体をもどす「本殿遷座祭」が盛大に行われた,と新聞がつたえています。この遷座祭は60年ぶりということで,大きな話題になっています。が,それだけではなくて,伊勢神宮の遷座祭(こちらは20年に1回)と重なったこともあって,なにかと両者がコラボレートするイベントなども企画されていて,情報量が多くなっているのでしょう。でも,よくよく考えてみますと,古代の神さまが社殿を改築して移住するからといって,こんなに大騒ぎをする必要もないようにも思います。そこには,なにか,意図が隠されているように思うのは,いささか考えすぎというものでしょうか。
で,報道によりますと,昨夜の出雲大社には,天皇の勅使をはじめとする約1万2千人の参列者が集まり,荘厳な雰囲気のなかで「遷座祭」が執り行われたといいます。そのうち,8千5百人は招待客,あとは一般の参列者ということなのでしょうか。午後7時すぎには,ちょうちん以外のすべての明かりが消され,暗闇のなかで「遷座祭」が,いろいろに演出されたようです。
総事業費は約80億円。この金額が多いのか,少ないのか,わたしのような小市民には理解できません。が,これだけの金額を集めるのは出雲大社なら,いともかんたんなことなのかもしれません。なにせ,一年に一度は「八百万」の神さまが集まって「会議」をなさる,という伝承が広く知られているくらいですから。世間の神無月(陰暦の10月)は,出雲では「神在月」(かみありづき)といわれるゆえんです。その神々のもとには,それぞれ氏子や垣内と呼ばれる人びとが大勢,組織されているわけですから。でも,それだけでもなさそうな気がします。
さて,ここからがわたしの幻視のはじまりです。天皇の勅使が参列することと「事業費」の問題をどのように考えるか,ということです。なぜなら,『古事記』に詳しく描かれていますように,「国譲り」神話の交渉の段階で,オオクニヌシを祀る社殿を,朝廷が祀る社殿にも等しいか,それ以上の立派なものを建造すること,という条件を提示して,それを受け入れた,とあります。それが「国譲り」の条件だったというわけです。
そのために,一時は,16丈もの高さの社殿が建造された,といわれています。現在の社殿の高さが8丈といいますので,その倍の高さがあったということになります。丈は尺の10倍(10尺)ですから,約3m。その16倍,すなわち,48mの高さがあった,ということになります。そして,これは事実だっただろう,と上田正昭さんは書いています(『出雲──聖地の至宝』,古事記1300年・出雲大社大遷宮特別展図録,P.6~11.2012年)。その証拠に,2000年の発掘調査で見つかった宇豆柱(うづばしら),御柱(心御柱・しんのみはしら),などを挙げています。それらの柱は,3本の巨大の杉の大木を組み合わせてつくられており,その直径は2.7m~3mに達している,といいます。このうちの宇豆柱は,昨年の秋,上野の国立博物館で開催された特別展で,わたしもこの目でみてきました。それは想像を絶するほどの太さでした。
さらに,上田正昭さんは,「雲太(うんた),和二(わに),京三(きょうさん)」の話を,『口遊(くちずさみ)』(源為憲著,970年)から引いて紹介しています。「雲太」とは出雲国杵築明神殿のことで,ここが日本で一番高い建物であったと。つづけて,「和二」(東大寺大仏殿)が二番目,「京三」(平安宮大極殿)が三番目,という次第です。
こんなに大きなものを,ときの朝廷はつくらなくてはならなかった「国譲り」神話の約束とは,いったいどういうものだったのか,とても不思議です。この約束を守らなくては国を治めていくことはできない,なんらかの理由があったということなのでしょう。だとしたら,その理由とはなにか。そして,このことと野見宿禰の相撲とは無縁ではない,というのがわたしの幻視のひとつです。
この大社殿の造営・維持管理の約束が,のちのちの朝廷にとってもとても大きな財政的な重荷になってのしかかっていた,と村井康彦さんも『出雲と大和』のなかで触れています。
こうなってきますと,「出雲」とはそもそもなにものなのか。そして,「大国主命」とはなにものなのか,というとてつもなく大きな疑問が湧いてきます。
その残像が,「天皇の勅使」の派遣でしょう。そして,約80億円という総事業費は,信者の寄進によるものだけではなく,どこか別のところからも捻出されているのではないだろうか,などと余分なことまで「幻視」してしまいます。
なぜ,このようなことにこだわるのか,これから追い追い明らかにするつもりですが,とりあえずは,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』(岩波文庫)と深く共振・共鳴するものがあるから,とだけ答えておきたいと思います。つまり,「魂の欲求」ということです。
今日のところは,ここまでにしておきます。
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