昨夜とその前夜と二晩つづけてフィギュアスケート・中国杯をテレビ観戦してしまいました。ちょっとだけ見て,すぐに切り上げるつもりでしたが,そうはいきませんでした。もともと,フィギュアスケートをみるのは大好きでしたから,見はじめたらもういけません。むかし,体操競技をやっていたこともあり,同じ採点競技という点で,いま考えなくてはならない問題を共有していることもあります。それは,太極拳競技の採点方法とも共通していて,こんな採点方法でいいのだろうか,とつねづね考えていることもありました。
それはともかくとして,久しぶりに浅田真央ちゃん(もう立派な大人だから「ちゃん」では失礼か,でもむかしからのファンはやはり「ちゃん」と呼びたい)の笑顔がよみがえり,テレビの画面がいっそう明るくなりました。昨夜のフリーの後半では,じつに楽しそうに笑顔もこぼれながらの演技で,すっかり楽しませてもらいました。そして,大人のスケートを感じました。これまでのようないっぱいいっぱいの滑りではなく,ちょっと抑えぎみの演技でしたが,そこに大きな余裕が生まれ,みていて気持ちよく,これぞフィギュアだと思いました。スケーティングが上手な証拠。
男子の町田樹君も優勝,おめでとう。あのあこがれの高橋選手を逆転しての優勝ですから,悦びも一入というところでしょう。羽生君という新人も現れ,若手選手の台頭は眼を見張るものがあります。町田君のスケートは,とても折り目正しい,きちんとメリハリの効いた,いかにも若者らしい演技だったと思います。いま持てる実力を本番できちんと発揮できる精神力の強さも立派です。これでファイナル出場権を獲得したわけですので,これからは,いまのスケートにもっともっと磨きをかけて,高橋選手の絶好調のときのスケートに挑戦しましょう。
ショートプログラムが終わってトップに立った高橋選手は余裕で優勝するだろうと思っていたら,そうはいきませんでした。練習不足で不調だったとは,終わってからの話。それ以前に,これだけの選手でも大事な試合で「自滅」するのだということを見せつけられたことが,とても印象に残りました。この点は体操競技と同じ。勝ちを意識したり,演技を計算するようになると,とたんに乱れが生じ,自滅するということがよく起こります。どこまでも無欲で,無心でいなければなりません。これだけの実績をもっている選手でもそうなんですから,フィギュアスケートという競技もたいへんな世界だなぁ,と想像しています。
第二位になったとはいえ,高橋選手のスケートのうまさは健在でした。スケーティングの技術,表現力,ステップのうまさは抜群のものがあります。他の選手の追随を許さぬ,まさに,別次元の世界を楽しんでいるようにも見受けられました。高橋選手よ,焦ることはない。ゆっくりと,いまのプログラムに磨きをかけていって,最後に笑えるように努力してください。必ず,そこに到達することができる,とこれまでの高橋選手をみていて思います。あの大きな怪我から立ち直った精神力の持ち主ですから。
最後にひとこと。フィギュアスケートの放映をみていての不思議。単純に言ってしまえば,ジャンプを成功させるかどうか,それだけが勝敗の行方を決めているようにみえることです。そして,なにが,どのように採点されているのか,さっぱり分からないまま,ただ,ひたすらジャンプのシーンだけを見つめつづける(会場の観衆もそういう反応をしていた),そういう競技のようにみえてしまいます。しかし,解説者がときおり発している「技術点」とか「構成点」とか「工夫」とかの内容が,わたしにはよく分かりません。
熱心なファンは分かるのだろうかと思いながら,フィギュアスケートの「採点方法」を全日本スケート連盟の公式ホームページで調べてみました。これがまたとてつもなく複雑で,一回や二回読んだくらいではとてもとても理解できるようなものではありません。要点をノートにとって整理してみようと思いましたが,途中で投げ出しました。体操競技の採点方法の複雑さを承知していますので,ある程度は覚悟していましたが,それに勝るとも劣るものではありませんでした。それは,まさに,伏魔殿のような仕掛けになっています。
その結果,みえてきたことはなにかといえば,以下のようなことです。
会場にいる審判も,選手も,監督・コーチも,観客も,そして報道関係者も,だれも演技結果の点数はわからないということです。つまり,分業化された審判の採点結果を一カ所に集めて,その上で,「ISU規則322号の表」に照らし合わせて,一つひとつ別の点数に換算し,それらを集計して,ようやく選手のトータルの点数がはじき出されるというわけです。ですから,演技が終わってから点数の発表まで相当に時間がかかります。もちろん,その間,コンピューターに入力し,すべての計算が終わるまで,人間はじっと待っているだけです。ですから,いまの演技が何点になるかは,だれにもわかりません。しかも,点数を予測することさえ不可能だと言われています。それほどに微妙な要素点が,つぎつぎに加点されながら,最終得点がはじき出されるという次第です。
ですから,発表された点数をみるまでは空白の時間が流れます。そしてその結果をみて,喜んだり悲しんだりするだけの,まことに単純な競技になってしまっています。観客の自己採点などということはまったく不可能です。テレビ観戦をしているわたしたちにもまったく手も足も出せません。それは,体操競技の採点方法とまったく同じです。これでは,競技そのものの醍醐味を味わうことはできません。むしろ,最初から拒否されているようなものです。
ジャンプの成功が勝敗の鍵を握っているのは確かですが,それだけではないということも,もっと知られる必要があるように思います。たとえば,構成点の内容をみてみますと「スケート技術,要素のつなぎ,動作/身のこなし,振り付け/構成,曲の解釈」などが採点の対象になっています。これらの採点対象がどのように評価されたのかも,発表してほしいと思います。その上で「解説」をつけてもらえると,かなり質の高いテレビ観戦ができるようになるのではないか,とわたしは考えています。そうすれば,演技の途中でも,ここは加点される,ここは減点される,ということがわかってきます。そうなってくるとファンの数も質も,ともにレベルが上がってきて,俄然,面白くなると思うのですが・・・・。
このままでは,採点の素点も,換算点も,そして集計のプロセスも,すべてコンピューターのなかで処理されて,終わりです。言ってしまえば,すべては密室の中,いや,闇の中で処理されているということです。もちろん,その記録は全部,残されてはいるでしょうが,競技の途中では分かりません。となると,最終発表の点数に対する異議申し立てもできません。
こうなってきますと,フィギュアスケートという競技は,人間の手から離れ,神の領域に委ねられるところにきてしまった,と言わざるをえません。しかし,この神の領域とは,テクノサイエンスという新しい「神」の領域という意味です。つまり,原発やiPS細胞と同じことが,スポーツの世界でも着々と行われているということです。言ってしまえば,「科学神話」による「聖なる世界」の侵犯です。このまま放置しておいていいのだろうか,とこれまた深刻に考えています。
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それはともかくとして,久しぶりに浅田真央ちゃん(もう立派な大人だから「ちゃん」では失礼か,でもむかしからのファンはやはり「ちゃん」と呼びたい)の笑顔がよみがえり,テレビの画面がいっそう明るくなりました。昨夜のフリーの後半では,じつに楽しそうに笑顔もこぼれながらの演技で,すっかり楽しませてもらいました。そして,大人のスケートを感じました。これまでのようないっぱいいっぱいの滑りではなく,ちょっと抑えぎみの演技でしたが,そこに大きな余裕が生まれ,みていて気持ちよく,これぞフィギュアだと思いました。スケーティングが上手な証拠。
男子の町田樹君も優勝,おめでとう。あのあこがれの高橋選手を逆転しての優勝ですから,悦びも一入というところでしょう。羽生君という新人も現れ,若手選手の台頭は眼を見張るものがあります。町田君のスケートは,とても折り目正しい,きちんとメリハリの効いた,いかにも若者らしい演技だったと思います。いま持てる実力を本番できちんと発揮できる精神力の強さも立派です。これでファイナル出場権を獲得したわけですので,これからは,いまのスケートにもっともっと磨きをかけて,高橋選手の絶好調のときのスケートに挑戦しましょう。
ショートプログラムが終わってトップに立った高橋選手は余裕で優勝するだろうと思っていたら,そうはいきませんでした。練習不足で不調だったとは,終わってからの話。それ以前に,これだけの選手でも大事な試合で「自滅」するのだということを見せつけられたことが,とても印象に残りました。この点は体操競技と同じ。勝ちを意識したり,演技を計算するようになると,とたんに乱れが生じ,自滅するということがよく起こります。どこまでも無欲で,無心でいなければなりません。これだけの実績をもっている選手でもそうなんですから,フィギュアスケートという競技もたいへんな世界だなぁ,と想像しています。
第二位になったとはいえ,高橋選手のスケートのうまさは健在でした。スケーティングの技術,表現力,ステップのうまさは抜群のものがあります。他の選手の追随を許さぬ,まさに,別次元の世界を楽しんでいるようにも見受けられました。高橋選手よ,焦ることはない。ゆっくりと,いまのプログラムに磨きをかけていって,最後に笑えるように努力してください。必ず,そこに到達することができる,とこれまでの高橋選手をみていて思います。あの大きな怪我から立ち直った精神力の持ち主ですから。
最後にひとこと。フィギュアスケートの放映をみていての不思議。単純に言ってしまえば,ジャンプを成功させるかどうか,それだけが勝敗の行方を決めているようにみえることです。そして,なにが,どのように採点されているのか,さっぱり分からないまま,ただ,ひたすらジャンプのシーンだけを見つめつづける(会場の観衆もそういう反応をしていた),そういう競技のようにみえてしまいます。しかし,解説者がときおり発している「技術点」とか「構成点」とか「工夫」とかの内容が,わたしにはよく分かりません。
熱心なファンは分かるのだろうかと思いながら,フィギュアスケートの「採点方法」を全日本スケート連盟の公式ホームページで調べてみました。これがまたとてつもなく複雑で,一回や二回読んだくらいではとてもとても理解できるようなものではありません。要点をノートにとって整理してみようと思いましたが,途中で投げ出しました。体操競技の採点方法の複雑さを承知していますので,ある程度は覚悟していましたが,それに勝るとも劣るものではありませんでした。それは,まさに,伏魔殿のような仕掛けになっています。
その結果,みえてきたことはなにかといえば,以下のようなことです。
会場にいる審判も,選手も,監督・コーチも,観客も,そして報道関係者も,だれも演技結果の点数はわからないということです。つまり,分業化された審判の採点結果を一カ所に集めて,その上で,「ISU規則322号の表」に照らし合わせて,一つひとつ別の点数に換算し,それらを集計して,ようやく選手のトータルの点数がはじき出されるというわけです。ですから,演技が終わってから点数の発表まで相当に時間がかかります。もちろん,その間,コンピューターに入力し,すべての計算が終わるまで,人間はじっと待っているだけです。ですから,いまの演技が何点になるかは,だれにもわかりません。しかも,点数を予測することさえ不可能だと言われています。それほどに微妙な要素点が,つぎつぎに加点されながら,最終得点がはじき出されるという次第です。
ですから,発表された点数をみるまでは空白の時間が流れます。そしてその結果をみて,喜んだり悲しんだりするだけの,まことに単純な競技になってしまっています。観客の自己採点などということはまったく不可能です。テレビ観戦をしているわたしたちにもまったく手も足も出せません。それは,体操競技の採点方法とまったく同じです。これでは,競技そのものの醍醐味を味わうことはできません。むしろ,最初から拒否されているようなものです。
ジャンプの成功が勝敗の鍵を握っているのは確かですが,それだけではないということも,もっと知られる必要があるように思います。たとえば,構成点の内容をみてみますと「スケート技術,要素のつなぎ,動作/身のこなし,振り付け/構成,曲の解釈」などが採点の対象になっています。これらの採点対象がどのように評価されたのかも,発表してほしいと思います。その上で「解説」をつけてもらえると,かなり質の高いテレビ観戦ができるようになるのではないか,とわたしは考えています。そうすれば,演技の途中でも,ここは加点される,ここは減点される,ということがわかってきます。そうなってくるとファンの数も質も,ともにレベルが上がってきて,俄然,面白くなると思うのですが・・・・。
このままでは,採点の素点も,換算点も,そして集計のプロセスも,すべてコンピューターのなかで処理されて,終わりです。言ってしまえば,すべては密室の中,いや,闇の中で処理されているということです。もちろん,その記録は全部,残されてはいるでしょうが,競技の途中では分かりません。となると,最終発表の点数に対する異議申し立てもできません。
こうなってきますと,フィギュアスケートという競技は,人間の手から離れ,神の領域に委ねられるところにきてしまった,と言わざるをえません。しかし,この神の領域とは,テクノサイエンスという新しい「神」の領域という意味です。つまり,原発やiPS細胞と同じことが,スポーツの世界でも着々と行われているということです。言ってしまえば,「科学神話」による「聖なる世界」の侵犯です。このまま放置しておいていいのだろうか,とこれまた深刻に考えています。
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