Monday, November 26, 2012

特別展「出雲──聖地の至宝──」のメモリー。巨木信仰の起源は?


  この特別展の正式名称は,東京国立博物館140周年 古事記1300年 出雲大社大遷宮 特別展「出雲──聖地の至宝──」というようにとても長いものです。でも,これを頭から読むと,その意気込みと内容がそのまま伝わってきます。こんなことは100年に一度のことだ,といわぬばかりに聴こえてきます。同時に,日本の古代史にとっての出雲の存在がどれほど大きいものであったか,ということも伝わってきます。


  しかし,意外なことに,出雲に関する詳しいことはあまりわかっていません。オオクニヌシの国譲り神話は有名ですが,やはり国を取られてしまった一族のことですので,どこか秘されているようなところがあります。それは,諏訪大社も同じでしょう。

 出雲大社の主神はオオクニヌシ,諏訪大社の主神はタケミナカタ(オオクニヌシの次男)。なぜか,出雲大社も諏訪大社も,いまでも多くの日本人のこころに「なにか」特別のものが深く刻み込まれているようです。かつては別格官弊社としてとくべつ扱いされるほどの,大きな存在であったことも事実です。

 この二つの大社のことを考えると,わたしはいつも巨木信仰と神様の関係を思い浮かべてしまいます。同時に,三内丸山遺跡に立つ巨木のやぐらのことも思い浮かべます。諏訪地方に古くから伝承されている7年に一度の「御柱祭」を筆頭に,全国各地に,山から神がかった巨木を切り倒して,凄まじい勢いで流し落とす儀礼が残っています。

 これらのことを考えると,なにかとてつもないことが,いまも日本人の魂の奥底に伝承されているのではないか,としみじみ思います。そして,こういう巨木にまつわる伝承に,なんの抵抗もなくこころがすっと惹かれていくのはいったいなぜなのか,と考えてしまいます。

 こんな,漠然とした興味・関心がありましたので,この特別展はなにがなんでもみておかなくてはと考えでかけました。実際にでかけたのはもうしばらく前のことですが・・・・。ですが,いつものように買ってきた図録を,ときおりひっぱりだしてきては眺めています。その時間だけは,日常の憂さからは解放され,一気にオオクニヌシの時代まで飛翔し,非現実の世界を浮游しているような気分になります。至福のときです。

 で,この特別展の目玉は,やはり「巨木」でした。入場してすぐに眼についたのは二つの展示物。一つは,出雲大社本殿復元模型。もう一つは,宇豆柱(うずばしら)と呼ばれる古い柱の地中に埋もれていた考古遺物。


出雲大社本殿復元模型は,10世紀ころに立っていたとされる図面にもとづく実寸の10分の1の模型です。それでも,本殿の一番高いところは4メートル80センチ。近くに寄っていくと,仰ぎ見るほどの高さです。それを見ながら,実際はこの10倍,48メートルもあったのか,と驚くばかり。ちょっと想像がつきません。一番高いところに鎮座する本殿に至りつくには長いながーい階段状のアプローチを上り詰めなくてはなりません。これを見ながら,往時の人びとは,まるで天にも昇る境地でこの階段を登ったのだろうなぁ,と想像していました。こうした方法で神様に接近していくという行為そのものが,ありがたさを倍増していったのでしょう。こうした素朴なこころの一部が,いまも,わたしたちのこころのどこかに棲みついているようにわたしは思います。

 この一番高い大社本殿をささえる柱が,宇豆柱です。この宇豆柱の考古遺物が2000年に発掘され,それが会場の中央に,貫祿十分に,堂々と展示されていました。3本の太い木を1本に束ねて,強度を補い,丈夫で高い柱をつくったということです。出土した宇豆柱は鎌倉時代の1248年の遷宮のときのものである可能性が高い,とのことです。3本の木の直径はそれぞれ110,0~135.0センチもの太さです。3本束ねたときの太さがどれほどのものかと想像したとき,そして,この宇豆柱の高さが48メートルにも達していたと想像したとき,この時代の人びとの気宇壮大なスケールの大きさに唖然とするばかりです。


 この巨木を出雲では,どこから伐りだしていたのでしょう。どこか近在の森からでしょうか。奈良の東大寺を建造するときの巨木は岡山県の山から伐りだして運んだという話を聞いたことがあります。だとすれば,この木も遠くから運んだ可能性があります。

 そのイメージを浮ばせてくれるものが,諏訪の「御柱祭」です。諏訪の山深くに生い茂る森林の中から,何本かの木が「神木」として選ばれ,伐り倒され,人・木が一体となって山をくだり,野や川を練り歩きしながら,諏訪の大社まで運ばれていきます。いまではテレビの映像でみた人も多いことと思います。でも,それはほんの一部を切り取るようにして映像化されているだけですが,実際に「御柱祭」に費やされる労力もお金もたいへんなものだと聞いています。7年間,氏子の人たちはこの祭のために蓄財し,この祭りのためにすべてを消費(消尽)してしまうとのことです。ああ,これはマルセル・モースのいう「贈与」ではないか,と驚いてしまいます。しかし,これが祭りというもののもともとの姿に近いものだろうとわたしは想像しています。

 こうして,出雲と諏訪の関係を考えながら,その一方で,安曇野にある穂高神社の存在が急に気がかりになってきてしまいます。アズミ(あるいは,アスミ,アツミ)一族の渡来の径路と全国への分布の仕方などを考えると,この勢力の大きさもまた相当なものではなかったか,と考えてしまいます。

 もう一点だけ。諏訪大社に祀られたタケミナカタは国譲りのときにタケミカズチと相撲をとって負けた神様です。そのことと,野見宿禰が出雲の人であったという伝承との関係,そして,出雲大社では「三月会」(さんがつえ)の神事のあとの芸能として相撲が奉納されていたという屏風絵(図録に掲載されている)との関係,などなど相撲という視点からも興味はつきません。

 まあ,そんなロマンの夢をこれからも見つづけていたいものです。

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