Thursday, January 10, 2013

「体罰」ということばについて。大阪体育大学大学院の授業で議論。

 1月11日(金)午後4時20分から午後5時50分まで,大阪体育大学大学院の授業を1コマ,担当させていただきました。いわゆるオムニバス方式の授業で,いろいろの専門の先生方が交代で担当し,毎回,違う内容の授業が展開されます。そのうちのひとつをわたしが担当したという次第です。テーマは「ロンドン・オリンピック後のスポーツについて考える」。

 まずは,ロンドン・オリンピックをどのように総括するかという話からはじめ,いま話題の東京オリンピック招致運動の話へと流れていきました。そして,現代のスポーツの問題を考えるためのキー・ワードとして「メディア・スポーツ複合体」(今福龍太)をとりあげました。なぜなら,わたしたちがなじんできた近代スポーツ競技とはいささか性格の異なる新たなスポーツ文化が生まれつつある,という認識がわたしにあったからです。つまり,ロンドン・オリンピックもふくめて,わたしたちが体験してきたスポーツとは次元の異なるスポーツ文化が,いま,まさに,誕生しつつある,というわけです。もっと言ってしまえば,メディアが生み出す(あるいは,製造加工し,物語化する)スポーツ文化ということです。

 こんな話をしているうちに,メディアが流すスポーツ情報については相当に注意をしていないといけない,という話になりました。そうこうしているうちに,自然に,いま話題の桜宮高校のバスケットボール部の「事件」の話になりました。橋下市長は「事案」と言っていますが,わたしは若い高校生の「命」を奪うことになった,これは「事件」だという話をしました。そして,この種の「事件」は氷山の一角にすぎないこと,しかも,その報道の仕方はスポーツの世界にかぎらず,原発に関する報道もふくめて,あらゆる分野で起きている重大な病根の一種なのだ,という指摘をしました。そうして,数日前にこのブログで書いたものを資料として配布しました。

 こんなような話をしたあと,出席した院生さんたちから,ひとことずつ意見や質問を受けることにしました。その内容がとても面白く,ほんとうは全部,ここに紹介したいところですが,ひとつだけに絞り込みます。

 それは,「体罰」ということばをめぐる議論です。

 ある院生(女性)さんが,つぎのような発言をしたのがきっかけとなり,大いに盛り上がりました。
 「わたしはバスケットボールをやっていて,高校時代にも相当に厳しい指導を受けてきました。もちろん,体罰も受けました。そして,ときにはムカッとくることもありました。でも,その先生を信じることができたので,我慢しました。その経験は,いまふりかえってみても,とてもよかったと思っています。ですから,こんどの報道を聞いていて,わたしは指導者である顧問の先生に同情的です。あの報道のされ方には問題があると思っています。取材した側の一方的な報道だけが流されて,しかも世論を煽るようにして非難の渦を巻き起こしています。あれだけの伝統を築いてきた先生ですから,もっと,愛情の籠もった体罰であったはずです。」

 わたしの記憶違いがあったら訂正しますが,概ね,こういう内容だったと思います。そこで,わたしは,とても貴重な意見だと思いましたので,きちんと議論するためのベースをつくる必要があると考え,「体罰」ということばの概念を明確にしておきましょう,と提案。そうしないと「体罰」の意味が,メディアが用いる場合や,わたしたちが用いる場合にも,それぞれ個々人によって違っていたら,議論はスレ違ってしまいます。しかも,そういう議論は疲れるだけで,不毛です。そこで,つぎのような話をしました。

 わたしは「体罰」ということばが嫌いです。なぜなら,メディアが用いている体罰ということばの概念がじつにあいまいなものでしかないし,場合によってはメディアの責任逃れの用語になっているようにも思うし,単にポビュリズムに迎合している用い方にもみえるからです。さらには,体罰ということばを多用することによって問題の本質を意図的にずらしているようにも思えるからです。大事なことは,「体罰」ということばの背景に隠されている,もっと根源的な問題をとらえることだ,と考えているからです。

 「体罰」ということばは,もともと生徒がなにか悪いことをしたということが明白なときに,先生がそれを咎めて,二度とそういうことをしないようにという教育者としての愛情を籠めて,罰としてからだに痛みをともなう仕置きをすることだ,とわたしは考えています。その「体罰」が,いつのころからか単なる「暴力」と化すようになり,ことばの正しい意味での「体罰」もふくめて,いっさい禁止されてしまいました。いかなる理由があっても,先生は生徒に「体罰」を加えてはいけない,ということになってしまいました。このことは,じつは,学校現場にあってはたいへんな変化をもたらすことになりました。詳しいことは省略します。

 しかし,全国大会のトップ・クラスをめざしているようなクラブ活動では,スポーツにかぎらず(たとえば,ブラスバンドなど),かなりの「体罰」が行われていることをわたしは知っています。そして,それは,先生と生徒と保護者の間に,深い愛情と信頼という強い絆で結ばれていることが前提です。わたしは,基本的に,このような「体罰」は認めたいと考えています。

 しかし,深い愛情と信頼関係を欠く場合には,それは単なる「暴力」です。こちらは断じて許すことはできません。深い愛情があったとしても「過剰に」なると,たちまち信頼を欠き,単なる「暴力」になってしまいます。このグレイ・ゾーンのあたりがとても微妙です。ここをしっかりと認識し,区別して議論しないと,この問題は,また違った別の「暴力」を生み出すことになります。

 このことがひとつ。

 もうひとつ,体罰ということばを多用することによって事態の本質がすり替えられることを,わたしは恐れています。

 それは,「みてみぬふり」をする「無責任体質」です。この病いはわたしのなかにも巣くっていますので,このことを語るのは「痛み」をともないます。が,思いきって言っておけば,桜宮高校の先生も生徒も,みんな「体罰」が常習化していることを,そして,ときには単なる「暴力」になってしまっていることも,知っていたはずです。学校というところはそういうところです。もし,それすらも知らないでいたとしたら,その方がもっと奇怪しいし,まさに,異常です。当然,教育委員会も承知していたはずです。にもかかわらず,みんな「みてみぬふり」をし,みずからの「無責任体質」を容認したまま,「だんまり」を決め込んでいた,これが実態だったのではないかとわたしは考えています。そして,この「みてみぬふり」「無責任体質」という,もっともっと大きな病理現象が,「体罰」ということばの乱用(これぞほんとうの「暴力」)の陰に隠れてしまっています。そして,議論の対象から遠のいてしまっていることの方を恐れています。

 とまあ,こんな話をさせてもらいました。院生さんたちも,とても真剣にわたしの話を聞いてくださり,いつもにも増してわたしも熱が入りました。聞き手がいいと,わたしの方も元気が湧いてきます。そして,ふだんは考えないような地平にまで,わたしの思考が伸びていきます。そして,いつのまにかわたし自身を「超え出て」いくことになります。これが「感動」の源泉のひとつです。スポーツの「感動」もまったく同じです。

 このほかにも,面白い議論がたくさんありましたが,すでに長いブログになっていますので,残念ながら割愛させていただきます。

 取りあえず,ここまで。

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