昨日(6月2日)の日曜日,どうしてもはずせない用事があって,昼中の芝公園にも,夕刻の国会前にも行くことができませんでした。どんな風だったのかなぁ,と気がかりになっていましたが,わたしが確認できた範囲のテレビはなにも伝えてはくれませんでした。ああ,無視される程度の人しか集まらなかったのか・・・・といささか失望していました。もう,このまま原発事故は過去のものにされてしまい,人びとの記憶からも遠ざかってしまうのだろうか,とそのことだけが気がかりでした。なぜなら,最近のテレビのニュースをみているかぎりでは,反原発運動などは眼中になく,どうでもいいスキャンダラスな情報ばかりが垂れ流されているからです。
が,今朝の『東京新聞』をみて安心しました。一面の中程にかなり大きく写真入りの囲み記事になっていました。
迫る参院選 「痛みへの想像力を」
原発反対6万人 国会を囲む
という見出しの文字が大きく躍っていました。
毎週金曜日の夕刻,首相官邸前で抗議集会をつづけている首都圏反原発連合が主催した「反原発国会大包囲」という抗議デモです。それにしても全国から6万人(主催者発表)の市民が集まってきたというのですから,これは久しぶりの快挙です。これを弾みにして,夏の参院選に向け,もっともっと大きな輪になっていけば・・・・,そして,首都圏だけではなく,全国の主要都市はもとより,地方の市町村単位でも,「反原発」の意思表示をする集会がひろがっていけば・・・といまは祈るような気持ちです。
その記事のなかには,日中に,芝公園と明治公園の二カ所で抗議集会が開かれ,こちらにも合わせて2万5千人超が集まった,とありました。芝公園では,大江健三郎さんや落合恵子さんらが演壇に立ち,反原発を訴えたとありました。
こういう抗議集会はこれまでにも何回も開かれています。が,わたしが不思議におもうのは,テレビなどで「哲学者」や「社会学者」を名乗り,さもものわかりのよさそうな話をしている若手の研究者・評論家たちの姿を,こういう抗議集会でみたことがない,ということです。もちろん,わたしがでかける抗議集会やデモはごくかぎられたものでしかありませんが,それでも,一度もみかけない,演壇に登壇しない,というのはわたしにしてみれば不思議です。
あれだけ立派なことをおっしゃるのであれば,自分たちで運動を組織して,自分たちの主張を世に訴えてしかるべきではないか,とわたしなどは単純に考えます。が,その裏はわかっています。そういう街頭に立って演説の一回でもぶてば,もう,二度とテレビには出演できないということを十分すぎるほど承知しているはずだからです。ということは,テレビに出演する哲学者・評論家の多くは,単なる売名行為であって,確たる思想・信条の吐露をしているわけではない,ということになります。もっと言ってしまえば,基本的には原発推進派だ,ということです。それをさも中立主義者のような玉虫色にみせかけて,「推進派でも,反対派でもない」と平然と言ってのける,まことに破廉恥きわまりない連中です。反対派ではない,ということは結果論としては推進派以外のなにものでもありません。
しかし,そういう若手がもてはやされるのはほんの一瞬でしかありません。すぐに馬脚を露にしてしまうために,マス・メディアは使い捨てにしてしまいます。突然,テレビに現れたかとおもうとあっという間に消えていった,あの人たちはなんだったのか,そして,そういう人たちを使い回すテレビというメディアはいったいなんなのか,と考えてしまいます。
そこにいくと大江健三郎さんは偉い。若いときから終始一貫して,みずからの思想・信条を訴えつづけています。ノーベル賞作家というおまけまで付いてしまいましたが・・・・。でも,この大江さんですら,最近は,ときおり妙なことをおっしゃいます。それほどに,いま,日本の社会で起きていること,そして,世界で起きていることの見極めをつけることは困難なのだ,ということなのでしょう。しかし,落合恵子さんが訴えるような「痛みへの想像力」を軸にしてものごとを考えていけば,おのずから道は開かれてくるのではないかとおもいます。いま,求められているのは,こうした女性の眼,女性の感性,感受性なのでしょう。その意味では,いまは,男がダメになってしまった最悪の時代といってよいでしょう。
ここにも「近代」(男)の終焉,「前近代」(女)の蘇生が見え隠れしています。「後近代」(両義性,両性具有)を切り開くための論理がそこから透けてみえてくるようにおもいます。これからは文化人類学者たちが持ち合わせている「複眼的」な思考回路が,ますます重要な意味をもつようになってくるのでは・・・とわたしは考えています。
反原発は,経済や政治の駆け引きのレベルで考えるのではなく,生身の生きる人間としての「痛み」の次元から,その思想を立ち上げていくべきでしょう。
そんなことを,昨日の抗議集会にも,国会大包囲デモにも参加できなかった懺悔の気持ちを籠めて,いま,このブログを書いています。他者の「痛み」に鈍感になってしまった男たちのひとりとして,深く反省しつつ・・・・・。
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が,今朝の『東京新聞』をみて安心しました。一面の中程にかなり大きく写真入りの囲み記事になっていました。
迫る参院選 「痛みへの想像力を」
原発反対6万人 国会を囲む
という見出しの文字が大きく躍っていました。
毎週金曜日の夕刻,首相官邸前で抗議集会をつづけている首都圏反原発連合が主催した「反原発国会大包囲」という抗議デモです。それにしても全国から6万人(主催者発表)の市民が集まってきたというのですから,これは久しぶりの快挙です。これを弾みにして,夏の参院選に向け,もっともっと大きな輪になっていけば・・・・,そして,首都圏だけではなく,全国の主要都市はもとより,地方の市町村単位でも,「反原発」の意思表示をする集会がひろがっていけば・・・といまは祈るような気持ちです。
その記事のなかには,日中に,芝公園と明治公園の二カ所で抗議集会が開かれ,こちらにも合わせて2万5千人超が集まった,とありました。芝公園では,大江健三郎さんや落合恵子さんらが演壇に立ち,反原発を訴えたとありました。
こういう抗議集会はこれまでにも何回も開かれています。が,わたしが不思議におもうのは,テレビなどで「哲学者」や「社会学者」を名乗り,さもものわかりのよさそうな話をしている若手の研究者・評論家たちの姿を,こういう抗議集会でみたことがない,ということです。もちろん,わたしがでかける抗議集会やデモはごくかぎられたものでしかありませんが,それでも,一度もみかけない,演壇に登壇しない,というのはわたしにしてみれば不思議です。
あれだけ立派なことをおっしゃるのであれば,自分たちで運動を組織して,自分たちの主張を世に訴えてしかるべきではないか,とわたしなどは単純に考えます。が,その裏はわかっています。そういう街頭に立って演説の一回でもぶてば,もう,二度とテレビには出演できないということを十分すぎるほど承知しているはずだからです。ということは,テレビに出演する哲学者・評論家の多くは,単なる売名行為であって,確たる思想・信条の吐露をしているわけではない,ということになります。もっと言ってしまえば,基本的には原発推進派だ,ということです。それをさも中立主義者のような玉虫色にみせかけて,「推進派でも,反対派でもない」と平然と言ってのける,まことに破廉恥きわまりない連中です。反対派ではない,ということは結果論としては推進派以外のなにものでもありません。
しかし,そういう若手がもてはやされるのはほんの一瞬でしかありません。すぐに馬脚を露にしてしまうために,マス・メディアは使い捨てにしてしまいます。突然,テレビに現れたかとおもうとあっという間に消えていった,あの人たちはなんだったのか,そして,そういう人たちを使い回すテレビというメディアはいったいなんなのか,と考えてしまいます。
そこにいくと大江健三郎さんは偉い。若いときから終始一貫して,みずからの思想・信条を訴えつづけています。ノーベル賞作家というおまけまで付いてしまいましたが・・・・。でも,この大江さんですら,最近は,ときおり妙なことをおっしゃいます。それほどに,いま,日本の社会で起きていること,そして,世界で起きていることの見極めをつけることは困難なのだ,ということなのでしょう。しかし,落合恵子さんが訴えるような「痛みへの想像力」を軸にしてものごとを考えていけば,おのずから道は開かれてくるのではないかとおもいます。いま,求められているのは,こうした女性の眼,女性の感性,感受性なのでしょう。その意味では,いまは,男がダメになってしまった最悪の時代といってよいでしょう。
ここにも「近代」(男)の終焉,「前近代」(女)の蘇生が見え隠れしています。「後近代」(両義性,両性具有)を切り開くための論理がそこから透けてみえてくるようにおもいます。これからは文化人類学者たちが持ち合わせている「複眼的」な思考回路が,ますます重要な意味をもつようになってくるのでは・・・とわたしは考えています。
反原発は,経済や政治の駆け引きのレベルで考えるのではなく,生身の生きる人間としての「痛み」の次元から,その思想を立ち上げていくべきでしょう。
そんなことを,昨日の抗議集会にも,国会大包囲デモにも参加できなかった懺悔の気持ちを籠めて,いま,このブログを書いています。他者の「痛み」に鈍感になってしまった男たちのひとりとして,深く反省しつつ・・・・・。