ニッポン国政府を筆頭に,この国の中枢部を動かしている人たちには「人のこころ」をもった人間はひとりもいないのだろうか。やることなすこと,人の道にはずれている。その最たるものが原発推進だ。あたかも脱原発依存であるかのようにみせかけておいて裏切った民主党だけかと思っていたら,自民党の総裁候補全員も原発推進だった。もはや,原発推進は既成事実となりつつある。この民主党のいい加減ぶり(優柔不断,無責任,詐欺師)と,自民党の徹底した「タカ派」ぶりを,わたしたちは肝に銘じておこう。そして,きたるべき総選挙で,きちんとした結果を出すべく,いまから覚悟を決めておこう。
「人のこころ」を失ってしまった人たちのやることは行き当たりばったり。フクシマの原発事故で発生した「指定廃棄物」(妙な名前をつけるものだ。これもまたまやかし言語の典型だ。はっきりと「放射性物質」といえない苦肉の策。子供騙しもいいところだ。もっと堂々と「原発ゴミ」といえばいい。)の最終処分場の候補地選びも行き当たりばったりだ。ある日,突然,担当大臣(あるいは,副大臣)が現れて,説明がある。だから,寝耳に水。虚を突かれるようにして,候補地に指定された方はいい迷惑だ。
栃木県の矢板市には,わたしの親しい友人が住んでいることもあって,びっくり仰天した。すぐに矢板市民は立ち上がり,「NO」をつきつけた。と思っていたら,こんどは茨城県の高萩市ときた。こちらにも長い間,親戚づきあいをしている一家が住んでいる。今日の新聞によれば,予定していた「市政について市民と語り合う懇談会」を,急遽,最終処分場問題に切り替えて,市民の声を聞いたという。もちろん,市長をはじめみんな反対。一致団結して「NO」の意思表明をしていこう,ということになったらしい。当然だ。
しかし,「国への法的な対抗措置はない」ので,「NO」の声が小さいと着々と工事は進められてしまうという。つまり,自治権はないのだそうだ。だから,いよいよになれば国による強行突破もありえるということなのだ。だとすれば,よほど強烈な反対運動を展開しないことには,国に対抗できないことになる。
この構図は,沖縄のオスプレイ配備と同じだ。沖縄については,県知事を筆頭にすべての市町村長が反対を表明し,すべての議会で反対議決を出しているにもかかわらず,国は強行配備に踏み切る構えだ。市民団体はからだを張って「座り込み」の構えだ。すでに,28日には「座り込み」に入った市民と警察とがもみ合っている。折しも台風の襲来で痛み分け。仕切り直しになっている。それでも,国は強行配備の姿勢を変えてはいない。こちらはアメリカ絡みの話だから,なおさら始末が悪い。
沖縄の事例を考えると,矢板市も高萩市も,安穏としていられる場合ではない。沖縄と違うのは,こちらは単なる国内問題。国と地方自治体との関係だ。しかし,それでもいまの民主党政府はなにをやりはじめるかは確証がない。なんでもありの政治手法だから。
こんな具合に,「原発ゴミ」の最終処分の方法すらなにもない,場所も確保されてはいない,まったく展望もえられていないのに,片や,原発推進(再稼働,工事続行)へと平気で舵を切っていく。こんな,小学生でもわかる「矛盾」をなにくわぬ顔をして推し進めることのできる人種なのだ。これを「人非人」と言わずして,なんと呼ぼうか。「人のこころ」をどこかに置き忘れてきた人たちの集団,いやいや,ものごとの筋道すら考えようとはしない「理性喪失」人間の集団,それがいまのニッポン国政府のありのままの姿なのだ。情けないかぎり。
かくなる上はとばかりに,脱原発デモは広がりをみせ,金曜日夜の首相官邸前の抗議活動だけではなく,こんどは原発推進を自認している自民党本部前でも行っている。さらには,経団連会館前でも行っている。やがてはアメリカ大使館前か。
ニッポン国の根幹をなす意思決定,原発推進か,脱原発か,を問う天下分け目の決戦が繰り広げられつつある。その一方では,みんなで決めよう「原発」国民投票,という運動も展開している。いよいよなにかが始まろうとしている。そんな予感でいっぱいだ。
こんな情況にあってもなお,「わたしは原発推進でも,反対でもない」とかつてのたまった著名な評論家や作家は,いまも平然としているのだろうか。いまもって前言を取り消すという発言を耳にしていないが・・・・。この人たちもまた「思考停止」以外のなにものでもない。それだけではない。賛成でも反対でもない,ということは原発を「容認」していることと同じだ
矢板市にも,高萩市にも,いよいよとなったら応援にでかけるつもりでいる。いまは,行動するときだ,と考えるから。沖縄と同じことが,いま,矢板市と高萩市で繰り広げられようとしている。ひとりの人間として,熟慮と行動を,とわが身に語りかけながら・・・・。
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「人のこころ」を失ってしまった人たちのやることは行き当たりばったり。フクシマの原発事故で発生した「指定廃棄物」(妙な名前をつけるものだ。これもまたまやかし言語の典型だ。はっきりと「放射性物質」といえない苦肉の策。子供騙しもいいところだ。もっと堂々と「原発ゴミ」といえばいい。)の最終処分場の候補地選びも行き当たりばったりだ。ある日,突然,担当大臣(あるいは,副大臣)が現れて,説明がある。だから,寝耳に水。虚を突かれるようにして,候補地に指定された方はいい迷惑だ。
栃木県の矢板市には,わたしの親しい友人が住んでいることもあって,びっくり仰天した。すぐに矢板市民は立ち上がり,「NO」をつきつけた。と思っていたら,こんどは茨城県の高萩市ときた。こちらにも長い間,親戚づきあいをしている一家が住んでいる。今日の新聞によれば,予定していた「市政について市民と語り合う懇談会」を,急遽,最終処分場問題に切り替えて,市民の声を聞いたという。もちろん,市長をはじめみんな反対。一致団結して「NO」の意思表明をしていこう,ということになったらしい。当然だ。
しかし,「国への法的な対抗措置はない」ので,「NO」の声が小さいと着々と工事は進められてしまうという。つまり,自治権はないのだそうだ。だから,いよいよになれば国による強行突破もありえるということなのだ。だとすれば,よほど強烈な反対運動を展開しないことには,国に対抗できないことになる。
この構図は,沖縄のオスプレイ配備と同じだ。沖縄については,県知事を筆頭にすべての市町村長が反対を表明し,すべての議会で反対議決を出しているにもかかわらず,国は強行配備に踏み切る構えだ。市民団体はからだを張って「座り込み」の構えだ。すでに,28日には「座り込み」に入った市民と警察とがもみ合っている。折しも台風の襲来で痛み分け。仕切り直しになっている。それでも,国は強行配備の姿勢を変えてはいない。こちらはアメリカ絡みの話だから,なおさら始末が悪い。
沖縄の事例を考えると,矢板市も高萩市も,安穏としていられる場合ではない。沖縄と違うのは,こちらは単なる国内問題。国と地方自治体との関係だ。しかし,それでもいまの民主党政府はなにをやりはじめるかは確証がない。なんでもありの政治手法だから。
こんな具合に,「原発ゴミ」の最終処分の方法すらなにもない,場所も確保されてはいない,まったく展望もえられていないのに,片や,原発推進(再稼働,工事続行)へと平気で舵を切っていく。こんな,小学生でもわかる「矛盾」をなにくわぬ顔をして推し進めることのできる人種なのだ。これを「人非人」と言わずして,なんと呼ぼうか。「人のこころ」をどこかに置き忘れてきた人たちの集団,いやいや,ものごとの筋道すら考えようとはしない「理性喪失」人間の集団,それがいまのニッポン国政府のありのままの姿なのだ。情けないかぎり。
かくなる上はとばかりに,脱原発デモは広がりをみせ,金曜日夜の首相官邸前の抗議活動だけではなく,こんどは原発推進を自認している自民党本部前でも行っている。さらには,経団連会館前でも行っている。やがてはアメリカ大使館前か。
ニッポン国の根幹をなす意思決定,原発推進か,脱原発か,を問う天下分け目の決戦が繰り広げられつつある。その一方では,みんなで決めよう「原発」国民投票,という運動も展開している。いよいよなにかが始まろうとしている。そんな予感でいっぱいだ。
こんな情況にあってもなお,「わたしは原発推進でも,反対でもない」とかつてのたまった著名な評論家や作家は,いまも平然としているのだろうか。いまもって前言を取り消すという発言を耳にしていないが・・・・。この人たちもまた「思考停止」以外のなにものでもない。それだけではない。賛成でも反対でもない,ということは原発を「容認」していることと同じだ
矢板市にも,高萩市にも,いよいよとなったら応援にでかけるつもりでいる。いまは,行動するときだ,と考えるから。沖縄と同じことが,いま,矢板市と高萩市で繰り広げられようとしている。ひとりの人間として,熟慮と行動を,とわが身に語りかけながら・・・・。
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