オスカー・ピストリウスの3連覇がかかっていたパラリンピック200m決勝で,予想外のことが起きた。ダントツのトップを走っていたピストリウスがゴール寸前で追い抜かれ,まさかの2着になってしまったのだ。さすがのピストリウスも心を乱したのか,記者会見で「あいつの義足は長すぎる」と毒づいてしまった。さあ,こうなるとメディアは黙ってはいない。新聞・テレビはもちろん,ツイッターでも言いたい放題。
しかし,パラリンピックの背後に秘められているもっとも根源的な問題が,これを契機にして一気に噴出した,と言っても過言ではなさそうだ。
よくよく考えると,この問題は,なにもパラリンピックに限らない。近代スポーツの進展の裏側には,つねについてまわっていたアスリートと用具・施設の問題なのだ。つまり,一般の生活を営んでいるわたしたちにも通じる普遍の問題なのだ。つまり,人間にとって「道具とはなにか」という根源的な問いが,その背後にあるとわたしは考える。
早速,映像を確認してみると,なるほど,ピストリウスを追い抜いたアラン・オリベイラ(20歳・ブラジル)のブレードは長い。ピストリウスとオリベイラが並んで写っている写真をみても,そのことは歴然としている。
しかし,IPC(国際パラリンピック委員会)によれば,義足の長さは選手のからだを計測して,身長に合わせて規定しているという。今回も,すべての選手の義足を試合前に確認し,全員が規定の範囲内である,と判断しているとのこと。その結果がこれだ。つまり,かなりの誤差を認めている,ということだ。
かつて,棒高跳びの競技が竹とスチールとが同時に用いられていた時代があった。日本の選手が活躍できたのは「竹」を用いていたからだ,という説もある。それから時代がくだると,スチールの性能がよくなり,竹では勝負できなくなる。さらに,グラスファイパーという素材が用いられるようになって,こんにちにいたる。つまり,近代スポーツはテクノサイエンスの進展とともに大きく変化してきている。
この問題が,プレード・ランナーの場で起きただけの話。こういう不公平が明らかになった段階で,みんなが納得できるルール改正を繰り返してきた。だから,IPCも,ピストリウスの意見を聞く場を後日設ける,と言っている。
ヒトが人間になるときの契機になったものの一つが「道具」だった。そのときから,よりすぐれた「道具」をわがものとするための競争がはじまる。これが人間の歴史を動かしてきた。バタイユに言わせれば「有用性」の追求である。しかし,その「有用性」には「限界」がある,とも断言している。この問題をバタイユは「一般経済学」と「普遍経済学」に分けて,詳細な議論を展開している。ここに,こんにち,わたしたちが直面している諸矛盾のすべてが凝縮している,とわたしは考えている。
残念ながら,原発はその典型的な事例になってしまった。
ブレード・ランナーにとっては「ブレードの性能」が大きく結果を左右する。のみならず,ブレードの性能がさらに高まれば,健常者の記録を上回ることになる。その日の到来するのも,もはやそんなに遠くはない,と言われている。その意味では,ピストリウスは時代の最先端を切り開く革命児だったのだ。そのピストリウスを,さらに上回るアスリートが現れた。それがブラジルのオリベイラだった。
たしかに,100mのコーナーを回ってからのオリベイラの加速は驚異的だった。約8mもの差(ピストリウスの談話による)を残りの100mで縮め,追い抜くということは,ふつうでは考えられないことだ。しかし,それが可能となる時代の幕が切って落とされた。
パラリンピックには,現代社会がかかえこんでいる諸矛盾が凝縮しているように思う。それらの一つひとつが可視化される「場」として,わたしは注目したいと思っている。それは同時に,スポーツ文化とはなにか,現代社会を生きる人間にとって「スポーツとはなにか」を考える,絶好のチャンスでもある。その意味で,パラリンピックと本気で向き合いたいと考えはじめている。
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しかし,パラリンピックの背後に秘められているもっとも根源的な問題が,これを契機にして一気に噴出した,と言っても過言ではなさそうだ。
よくよく考えると,この問題は,なにもパラリンピックに限らない。近代スポーツの進展の裏側には,つねについてまわっていたアスリートと用具・施設の問題なのだ。つまり,一般の生活を営んでいるわたしたちにも通じる普遍の問題なのだ。つまり,人間にとって「道具とはなにか」という根源的な問いが,その背後にあるとわたしは考える。
早速,映像を確認してみると,なるほど,ピストリウスを追い抜いたアラン・オリベイラ(20歳・ブラジル)のブレードは長い。ピストリウスとオリベイラが並んで写っている写真をみても,そのことは歴然としている。
しかし,IPC(国際パラリンピック委員会)によれば,義足の長さは選手のからだを計測して,身長に合わせて規定しているという。今回も,すべての選手の義足を試合前に確認し,全員が規定の範囲内である,と判断しているとのこと。その結果がこれだ。つまり,かなりの誤差を認めている,ということだ。
かつて,棒高跳びの競技が竹とスチールとが同時に用いられていた時代があった。日本の選手が活躍できたのは「竹」を用いていたからだ,という説もある。それから時代がくだると,スチールの性能がよくなり,竹では勝負できなくなる。さらに,グラスファイパーという素材が用いられるようになって,こんにちにいたる。つまり,近代スポーツはテクノサイエンスの進展とともに大きく変化してきている。
この問題が,プレード・ランナーの場で起きただけの話。こういう不公平が明らかになった段階で,みんなが納得できるルール改正を繰り返してきた。だから,IPCも,ピストリウスの意見を聞く場を後日設ける,と言っている。
ヒトが人間になるときの契機になったものの一つが「道具」だった。そのときから,よりすぐれた「道具」をわがものとするための競争がはじまる。これが人間の歴史を動かしてきた。バタイユに言わせれば「有用性」の追求である。しかし,その「有用性」には「限界」がある,とも断言している。この問題をバタイユは「一般経済学」と「普遍経済学」に分けて,詳細な議論を展開している。ここに,こんにち,わたしたちが直面している諸矛盾のすべてが凝縮している,とわたしは考えている。
残念ながら,原発はその典型的な事例になってしまった。
ブレード・ランナーにとっては「ブレードの性能」が大きく結果を左右する。のみならず,ブレードの性能がさらに高まれば,健常者の記録を上回ることになる。その日の到来するのも,もはやそんなに遠くはない,と言われている。その意味では,ピストリウスは時代の最先端を切り開く革命児だったのだ。そのピストリウスを,さらに上回るアスリートが現れた。それがブラジルのオリベイラだった。
たしかに,100mのコーナーを回ってからのオリベイラの加速は驚異的だった。約8mもの差(ピストリウスの談話による)を残りの100mで縮め,追い抜くということは,ふつうでは考えられないことだ。しかし,それが可能となる時代の幕が切って落とされた。
パラリンピックには,現代社会がかかえこんでいる諸矛盾が凝縮しているように思う。それらの一つひとつが可視化される「場」として,わたしは注目したいと思っている。それは同時に,スポーツ文化とはなにか,現代社会を生きる人間にとって「スポーツとはなにか」を考える,絶好のチャンスでもある。その意味で,パラリンピックと本気で向き合いたいと考えはじめている。
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