Saturday, September 1, 2012

わたしが生まれる前のわたしの存在へ。「沈黙」への想像力の飛翔──「物質的恍惚」。

 よく知られているように,ル・クレジオの『物質的恍惚』は,生誕前(=物質的恍惚),生誕後(=無限に中ぐらいなもの),死後(=沈黙)の三部構成をとっています。そして,訳者の豊崎さんの解説によれば,生誕前と死後の世界である「物質的恍惚」と「沈黙」は同じだといいます。わたしがわたしの存在をある程度まで確認てきるのは,唯一,生誕後の生きている間(=無限に中ぐらいなもの)だけのことだ,というわけです。

 たしかに生誕前の「物質的恍惚」の時代も,わたしにとっては「沈黙」以外のなにものでもありません。しかし,ル・クレジオの想像力はたくましく,その「沈黙」の世界がまさしく「無限」のひろがりをもっていることを,わたしたちに指し示してくれます。こんな本を27歳にして世に問うたというのですから,わたしには想像だにできません。しかも,ヒンドゥー教との出会いをきっかけにして,ここまて想念をめぐらすことができたル・クレジオという人の,感性の鋭さと内面の世界のひろがりに,ただ,ただ,唖然とするばかりです。

 あのニーチェがゾロアスター教の影響を受けて書いたといわれる『ツァラトゥストラはこう言った』ですら,ニーチェが40歳を過ぎてからの話です。また,バタイユが,きわめて個人的な神秘体験をもとに書いたといわれる『内的体験』にしても,43歳すぎてからのことだといいます。ですから,ル・クレジオがいかに若くしてその天才ぶりを発揮したかは明々白々というわけです。

 その若きル・クレジオが「物質的恍惚」という,現実にはありえない概念を用いて,明らかにしようとしたことはなにであったのか,しばらくはその「無限」の時空間に向き合って,自問自答しながら格闘する以外にはなさそうです。

 で,まずは,その書き出しを引いてみたいと思います。

 ぼくが生まれていなかったとき,ぼくがまだぼくの生命の円環を閉じ終えていず,やがて消しえなくなるものがまだ刻印されはじめていなかったとき。ぼくが存在するいかなるものにも属していなかったとき,ぼくが孕まれて(コンシュ)さえいず,考えうるもの(コンスヴァーブル)でもなかったとき,限りなく微小な精確さの数々から成るあの偶然が作用を開始さえしていなかったとき。ぼくが過去のものでもなく,現在のものでもなく,とりわけ未来のものではなかったとき。ぼくが存在していなかったとき。ぼくが存在することができなかったとき。眼にもとまらぬ細部,種子の中に混じり合った種子,ほんの些細なことで道から逸らされてしまうに足りる単なる可能性だったとき。ぼくか,それとも他者たち。男か,女か,それとも馬,それとも樅の木,それとも金色の葡萄状球菌。ぼくが無でさえなかった──なぜならぼくは何ものかの否定ではなかったのだから──とき,一つの不在でもなく,一つの想像でもなかったとき。ぼくの精子(たね)が形もなく未来もなしにさまよい,涯(はて)しない夜のうちにあって,行き着くことのなかった他の精子の数々とひとしかったとき。ぼくがひとの養分になるものであって,みずから養分をとるものではなく,組み立てるものであって,組み立てられたものではなかったとき。ぼくは死んではいなかった。ぼくは生きてはいなかった。ぼくは他者たちの体の中にしか存在していず,他者たちの力によってしか力をふるえなかった。運命はぼくの運命ではなかった。極微な動揺が時の流れを走って,実質であるものは種々さまざまな道を辿って揺れていた。どの瞬間に,ドラマはぼくにとって切って落とされていたのか? どの男ないし女の体の中,どの植物の中,どの岩の塊の中で,ぼくはぼくの顔に向かう旅を始めていたのか?

 ほんの少しだけ引用するつもりが,区切ることを拒否するような文章がつづき,とうとうここまで書き写してしまいました。これが,ル・クレジオによる「物質的恍惚」(=「沈黙」)の世界の書き出しです。わたしの存在を確認することなどまったく不可能な世界,それでいて,どこかに,いつかわたしとなるさまざまな要素が,さまざまな他者のなかに分散して存在している,そういう世界。しかも,それでいて,それらの要素がそこはかとなく「わたしの顔」に向かう旅を始めている・・・とル・クレジオは想像力を巡らせています。これが,まだ27歳だったころのル・クレジオの『物質的恍惚』の書き出しの最初のパラグラフです。

 こんな文章が延々とつづきます。しかも,それでいて退屈しないどころか,強烈なインパクトをもって迫ってきます。しばらくすると,身動きできない状態で固まったまま,この本の虜となっています。なぜなら,これまで想像だにしたことのなかった「物質的恍惚」の「沈黙」の世界が映し出され,目の前に展開されているからです。そして,その「沈黙」の世界がなんと騒々しいことか,と耳をふさぎたくなるほどです。

 子どものころ,一度ならず,生まれる前はどうだったのだろうか,死ぬとどうなるのだろうか,と真剣に考えたことがあります。それは,もっとぼんやりとした「空想」の域をでませんでした。が,ル・クレジオの「物質的恍惚」の世界は,不思議なリアリティをもって迫ってきます。しかも,そこに「無限」の時空間が広がり,かつ,音や匂いまでが押し寄せてきます。

 「沈黙」や「無」や「空」が,いかに充実した内実をともなっているのか,ということが明らかになってきます。いま,わたしの頭のなかでは,子どものころから慣れ親しんできた『般若心経』の経文が鳴り響いています。とりわけ,「色即是空」「空即是色」の文言が・・・・・。そして,これらの仏教的世界もまたヒンドゥー教にルーツがあることも・・・・。ですから,わたしにとっては,ル・クレジオの『物質的恍惚』の世界は,仏教(とりわけ,禅仏教)的世界観と二重写しになって迫ってきます。

 ですから,ル・クレジオの『物質的恍惚』は,わたしにとってはなくてはならない座右の書でもあります。気が向いたときに,手が開いてくれたページに眼を落とすだけで,すぐに,その世界の中に入っていくことができます。

 そして,なによりも「訳文」が素晴らしい。

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