『abさんご』。
この小説の題名からはなんのイメージもわかない。少なくともわたしにはなんのことかわけがわからなかった。しかし,最後まで読み終えたときに,ようやく,なんともいえない感慨のようなものがそこはかとなく,しかも際限もなく湧いてくる。そうして,なるほど『abさんご』かと納得。しかも,この題名もさることながら,小説全体の構成から細部にいたるまで,よくぞここまで練り込んだものだと感心する。10年がかりで完成した作品だというだけあって,小説のそこかしこに,味わい深い仕掛けがあって,表層から深層までの奥行きの深さにしばしば立ち止まって,考えさせられてしまう。もう一度,読むとどうなるんだろうか,とそんな気にさせられる。
しかし,それにしても,なぜ『abさんご』なのか,とみずからに問いかけてみる。
名は体を表すという。ましてや,小説の題名はその内容を表象するものであるはずだ。だとすれば,『abさんご』とは,いったいなにを表象しているのだろうか。この謎解きは面白そうだ。芥川賞の選考委員のだれひとりとして,この問題に触れた人はいない。まさか,自明のことだ,というわけでもないだろうに。そこで,疑問に思ったわたしは,この小説をもう一度,読み直してみた。その結果の,わたしのアナロジーは以下のとおりである。
「ab」については,小説の冒頭と末尾の話に表れているので,これは間違いないだろう。つまり,「ab」とは,「a」と「b」という二つの選択肢のこと。a君とb君,というような具合に。あるいは,aという考えとbという考え,のように。いうならば二項対立。小説のなかではもっと複雑な「階層秩序的二項対立」(J.デリダ)をまったく無意味なものとばかりに溶解させ,どちらでもあり,どちらでもない,あるいは,どうでもいい,さらには,なるようにしかならない,といういわばこの小説の核心部分をなしている。だから,この「ab」はじつに大事な暗示でもある。
たとえば,小説の冒頭の書き出しは以下のようである。
「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,aにもbにもついにむえんだった.その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.」
いま,こうやって書き写してみると,なお一層,この小説の冒頭の書き出しのなかに「abさんご」という題名のニュアンスがみごとに凝縮していることに気づく。この文体については,すでに,芥川賞選考委員の人たちが口々に論評を加えているので,ここでは触れない。が,題名の「abさんご」との関連でいえば,この文体もまたかったるくて,セピア色の情景のかなたにさまざまな情念がうごめきあっている,いわゆる近代の合理的・論理的な文章をあたまから否定してかかっていることが,じわじわとつたわってくる。そして,文末で「みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある」と結ぶ。これで完璧である。ここに,まさに,この小説を「abさんご」と題した著者の思い入れが,存分に表出している。言ってしまえば,禅者のさとりの境地のような情景が「abさんご」なのだ。そこへの誘いの文章が冒頭の書き出しである。「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのか・・・・・,aにもbにもついにむえんだった」。世の中を生きるということは,いろいろなせめぎ合いのなかで悩まされることでもあるけれども,しょせんは「みゃくらくもなくあやれよせる野生の小禽たちのよびかわし」でしかないのだ,と。
こうして,この小説の世界が,なんともかったるくはじまる。が,このかったるさこそがこの小説の命綱のようなもので,しだいに,このかったるさに慣れていく。そして「このうえない軽さのうちへ」誘ってくれる。そのさきに広がっている世界が「野生の小禽たちのよびかわし」なのだ,と。すなわち,中西悟堂(禅者で,日本野鳥の会初代会長)の世界そのものだ。
こうして,小説はますますそのかったるさの世界に誘ってくれる。
が,長くなってしまうので,ここでは割愛。
一気に終わりに向かう。
そして,小説の末尾のところの描写は以下のとおりである。
「巻き貝のしんからにじりでた者は,小児をつれてしばしば長いさんぽをした.晴れておだやかな日にならいっそう長いさんぽになった。松と花木の庭庭にやぶまじりの,人と行きあうことのまれな土地で,よく知っている道も,まれにもくりこむ道も,はじめての道も,ぜんぶうれしがられた。
道が岐れるところにくると,小児が目をつぶってこまのようにまわる.ぐうぜん止まったほうへ行こうというつもりなのだが,どちらへだかあいまいな向きのことも多く,ふたりでわらいもつれながらやりなおされる。目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた.aの道からもbの道からもあふれよせた.」
この小説を,そのかったるさのなかに身をゆだねることのできた読者には,この結末の文章は感動的である。わたしは,しばし呆然としたまま天を仰いでいた。極めの一文は「目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた」である。視覚よりも臭覚を,と著者はこころの奥底から叫んでいるように聞こえる。言ってしまえば,見た目よりも,匂いの世界の方に,生の実体がある,と。もっと言ってしまえば,理性的な視覚重視の痩せた近代よりも,本能的な臭覚重視の前近代の豊穣さをとりもどせ,と。
もはや,これ以上は言うまでもないであろう。わたしがこの小説にこれほどまでに反応する理由を。手法も視点もまるで別物ではあるが,拙著『スポーツの後近代』(三省堂)に通底するものを感じとることができるからだ。そして,「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)を立ち上げ,「21世紀のスポーツ文化」を模索する作業に,まったく別の方向から,深くふかくくい込んでくるものを,この小説をもっていると感ずるからである。
最後に,辞書的な確認を。
「さんご」に相当することばは二つある。
「三五」と「参五」。
「三五」は,1.(3と5の積)十五。十五歳。十五夜。2.(長さが3尺5寸あることから)琵琶の異称。3.三皇五帝。4.こちらに三つ,あちらに五つとちらばること。まばらなこと。三々五々。─・や(三五夜)。─の十八。
「参五」は,いりまじること。
ここからさきは,想像力の問題だ。読者の思いのままだ。この作品の奥行きは無限(夢幻,無間,ムゲン)だ。読者の感性次第。
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この小説の題名からはなんのイメージもわかない。少なくともわたしにはなんのことかわけがわからなかった。しかし,最後まで読み終えたときに,ようやく,なんともいえない感慨のようなものがそこはかとなく,しかも際限もなく湧いてくる。そうして,なるほど『abさんご』かと納得。しかも,この題名もさることながら,小説全体の構成から細部にいたるまで,よくぞここまで練り込んだものだと感心する。10年がかりで完成した作品だというだけあって,小説のそこかしこに,味わい深い仕掛けがあって,表層から深層までの奥行きの深さにしばしば立ち止まって,考えさせられてしまう。もう一度,読むとどうなるんだろうか,とそんな気にさせられる。
しかし,それにしても,なぜ『abさんご』なのか,とみずからに問いかけてみる。
名は体を表すという。ましてや,小説の題名はその内容を表象するものであるはずだ。だとすれば,『abさんご』とは,いったいなにを表象しているのだろうか。この謎解きは面白そうだ。芥川賞の選考委員のだれひとりとして,この問題に触れた人はいない。まさか,自明のことだ,というわけでもないだろうに。そこで,疑問に思ったわたしは,この小説をもう一度,読み直してみた。その結果の,わたしのアナロジーは以下のとおりである。
「ab」については,小説の冒頭と末尾の話に表れているので,これは間違いないだろう。つまり,「ab」とは,「a」と「b」という二つの選択肢のこと。a君とb君,というような具合に。あるいは,aという考えとbという考え,のように。いうならば二項対立。小説のなかではもっと複雑な「階層秩序的二項対立」(J.デリダ)をまったく無意味なものとばかりに溶解させ,どちらでもあり,どちらでもない,あるいは,どうでもいい,さらには,なるようにしかならない,といういわばこの小説の核心部分をなしている。だから,この「ab」はじつに大事な暗示でもある。
たとえば,小説の冒頭の書き出しは以下のようである。
「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,aにもbにもついにむえんだった.その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.」
いま,こうやって書き写してみると,なお一層,この小説の冒頭の書き出しのなかに「abさんご」という題名のニュアンスがみごとに凝縮していることに気づく。この文体については,すでに,芥川賞選考委員の人たちが口々に論評を加えているので,ここでは触れない。が,題名の「abさんご」との関連でいえば,この文体もまたかったるくて,セピア色の情景のかなたにさまざまな情念がうごめきあっている,いわゆる近代の合理的・論理的な文章をあたまから否定してかかっていることが,じわじわとつたわってくる。そして,文末で「みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある」と結ぶ。これで完璧である。ここに,まさに,この小説を「abさんご」と題した著者の思い入れが,存分に表出している。言ってしまえば,禅者のさとりの境地のような情景が「abさんご」なのだ。そこへの誘いの文章が冒頭の書き出しである。「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのか・・・・・,aにもbにもついにむえんだった」。世の中を生きるということは,いろいろなせめぎ合いのなかで悩まされることでもあるけれども,しょせんは「みゃくらくもなくあやれよせる野生の小禽たちのよびかわし」でしかないのだ,と。
こうして,この小説の世界が,なんともかったるくはじまる。が,このかったるさこそがこの小説の命綱のようなもので,しだいに,このかったるさに慣れていく。そして「このうえない軽さのうちへ」誘ってくれる。そのさきに広がっている世界が「野生の小禽たちのよびかわし」なのだ,と。すなわち,中西悟堂(禅者で,日本野鳥の会初代会長)の世界そのものだ。
こうして,小説はますますそのかったるさの世界に誘ってくれる。
が,長くなってしまうので,ここでは割愛。
一気に終わりに向かう。
そして,小説の末尾のところの描写は以下のとおりである。
「巻き貝のしんからにじりでた者は,小児をつれてしばしば長いさんぽをした.晴れておだやかな日にならいっそう長いさんぽになった。松と花木の庭庭にやぶまじりの,人と行きあうことのまれな土地で,よく知っている道も,まれにもくりこむ道も,はじめての道も,ぜんぶうれしがられた。
道が岐れるところにくると,小児が目をつぶってこまのようにまわる.ぐうぜん止まったほうへ行こうというつもりなのだが,どちらへだかあいまいな向きのことも多く,ふたりでわらいもつれながらやりなおされる。目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた.aの道からもbの道からもあふれよせた.」
この小説を,そのかったるさのなかに身をゆだねることのできた読者には,この結末の文章は感動的である。わたしは,しばし呆然としたまま天を仰いでいた。極めの一文は「目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた」である。視覚よりも臭覚を,と著者はこころの奥底から叫んでいるように聞こえる。言ってしまえば,見た目よりも,匂いの世界の方に,生の実体がある,と。もっと言ってしまえば,理性的な視覚重視の痩せた近代よりも,本能的な臭覚重視の前近代の豊穣さをとりもどせ,と。
もはや,これ以上は言うまでもないであろう。わたしがこの小説にこれほどまでに反応する理由を。手法も視点もまるで別物ではあるが,拙著『スポーツの後近代』(三省堂)に通底するものを感じとることができるからだ。そして,「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)を立ち上げ,「21世紀のスポーツ文化」を模索する作業に,まったく別の方向から,深くふかくくい込んでくるものを,この小説をもっていると感ずるからである。
最後に,辞書的な確認を。
「さんご」に相当することばは二つある。
「三五」と「参五」。
「三五」は,1.(3と5の積)十五。十五歳。十五夜。2.(長さが3尺5寸あることから)琵琶の異称。3.三皇五帝。4.こちらに三つ,あちらに五つとちらばること。まばらなこと。三々五々。─・や(三五夜)。─の十八。
「参五」は,いりまじること。
ここからさきは,想像力の問題だ。読者の思いのままだ。この作品の奥行きは無限(夢幻,無間,ムゲン)だ。読者の感性次第。
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