鹿島田真希の芥川賞受賞作『冥土めぐり』を読んでいたら,『ブッダのことば──スッパニバータ』(中村元訳,岩波文庫)をどうしても読みたくなり,古い本のなかからひっぱりだしてきて,久し振りに拾い読みを楽しんだ。こういう本を読むと,ああ,やっぱり坊主になるべきだったなぁ,としみじみ思う。もはや手遅れではあるのだが・・・・。
この本は,第一 蛇の章 一、蛇 からはじまる。その冒頭の詩文からして,わたしの眼は釘付けになる。もう何回も,いや,何十回も,この冒頭の詩文は読んでいるにもかかわらず・・・・。引いておこう。
一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように,怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は,この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
「怒りが起こったのを制する修行者(比丘)」になりたいと思う。そのためには「この世とかの世とをともに捨て去」ればいいとブッダは説く。それは「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」とブッダはさらりと言う。「この世とかの世」とを「ともに捨て去る」,それだけのことだ,と。それは蛇の脱皮と同じだ,と。
この詩句には,つぎのような注が付されている。
蛇──この聖典の最初に蛇のことばかり出てくるので,日本人は異様な感じを受けるであろう。しかしインドないし南アジアでは,どこへ行っても蛇が多い。従ってインド人にはむしろ親しく感ぜられるのである。こういう風土的背景があるために,仏像やヒンドゥー教の神像には,光背が五頭とか七頭とかの蛇になっている場合が少なくない。蛇が霊力を以て神々を,また人々を護ってくれるのである。仏伝にも竜(つまり蛇)がしばしば登場する。
日本にも蛇は身近にいくらでも棲息しているが,インドではもっと多いらしい。わたしの育った寺には大きな青大将が天井に棲みついていて,しばしば姿を露すことがあった。しかも,青大将は家の守り神として大事にされていた。けして追い立てたり,いじめたりしてはいけない,と厳しく注意されていた。インドでも蛇は「霊力」をもっていて,神々や人々を守護する生きものとしてむかしから大事にされていたらしい。その教えが日本にも仏教とともに伝来してきたと考えることもできそうだ。
そして,この詩文に登場する「修行者(比丘)」にも,つぎのような注が付されている。
修行者──bhikkhu. 「乞う者」の意。漢訳では「比丘」と音写する。当時インドの諸宗教ではすべて家を出た修行者は托鉢によって食物を得ていたので,このようにいう。それのサンスクリット形 bhikqu という語は,インドのどの宗教でも用いられる。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食物を捧げるが,修行者は平然としてこれを受け,挨拶を返さない。
日本で言えば修行僧と同じだ。修行僧は同時に托鉢僧でもある。托鉢僧は家々の前に立ち,食物をいただく。だから乞食坊主という蔑称が生まれた。わたしなども子どものころには乞食坊主の息子と囃し立てられたことが何回もある。
ここでわたしの目を釘付けにするのは,「修行者は平然としてこれを受け,挨拶を返さない」というところだ。これは,日本の托鉢僧も同じである。お経を唱えながら玄関口に立ち,その日の食物を乞うのであるが,「挨拶」はしない。黙ってそのまま右回りをして立ち去る。
なぜ,挨拶(お礼の挨拶)をしないのか。答は簡単である。修行者(托鉢僧)は「この世とかの世をともに捨て去っている」からだ。つまり,世俗の価値観を超越した存在であるからだ。だから,食物を乞うても,いただけないものはいただけない,いただけるものはいただく,ただそれだけ。どちらの場合でも黙って立ち去るのみだ。蛇が脱皮するように世俗も来世も捨て去るということは,すでに,人間ではない,ということだ。つまり,人間の<外>にでてしまった存在だ,ということだ。もう一歩踏み込んで,バタイユ的な解釈をしておけば,人間性を捨てて,かつての動物性の世界にもどった,と考えることも可能だ。つまり,「水の中に水があるように」存在する,ということだ。
ここに至って想起されるのが『冥土めぐり』(鹿島田真希作)に登場する奈津子の夫の立ち居振る舞いである。とくに,脳の発作がおきて障害者となってからの夫の姿勢は,まさに,この修行者と同じだ。他人に親切にしてもらってもなにも言わない。食べ物をもらってもお礼も言わない。そして,ただひたすら美味しそうに食べる。それがごく当たり前のように振る舞う。それでいて見ず知らずの周囲の人たちにもすぐに好かれてしまう。そして,ごく自然に,すぐに周囲の中に溶け込んでしまう。なぜなら,周囲の人たちを傷つけることもしないで,ごくごく自然体で生きているからだ。あるがままに。空気のように。障害者である夫がそういう存在であるということに気づいた瞬間から,奈津子のこころは翻転する。わたしがこの人の世話をしているのではない。この人のお蔭でわたしが癒されている。生きるということの原像をそこにみとどける。こうして,奈津子は目覚めた人となる。
これが『冥土めぐり』を読み終えたときの,正直なわたしの読後感であった。だから,わたしは『冥土めぐり』を読み終えた瞬間から,そうだ『ブッダのことば──スッパニバータ』を読もうと決めていた。そして,それは間違いではなかった。
しばらくは,『ブッダのことば──スッパニバータ』を手放すことはてきそうにない。どのページを開いても,ハッとさせられる詩文でいっぱいである。ルクレジオの『物質的恍惚』とも通底するものがある。もちろん,バタイユの『宗教の理論』や『内的体験』とも,深いところでつながっている。座右の書に加えることにしよう。そして,折あるごとに開いてみることにしよう。もちろん,ひとり旅には必携である。
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この本は,第一 蛇の章 一、蛇 からはじまる。その冒頭の詩文からして,わたしの眼は釘付けになる。もう何回も,いや,何十回も,この冒頭の詩文は読んでいるにもかかわらず・・・・。引いておこう。
一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように,怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は,この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
「怒りが起こったのを制する修行者(比丘)」になりたいと思う。そのためには「この世とかの世とをともに捨て去」ればいいとブッダは説く。それは「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」とブッダはさらりと言う。「この世とかの世」とを「ともに捨て去る」,それだけのことだ,と。それは蛇の脱皮と同じだ,と。
この詩句には,つぎのような注が付されている。
蛇──この聖典の最初に蛇のことばかり出てくるので,日本人は異様な感じを受けるであろう。しかしインドないし南アジアでは,どこへ行っても蛇が多い。従ってインド人にはむしろ親しく感ぜられるのである。こういう風土的背景があるために,仏像やヒンドゥー教の神像には,光背が五頭とか七頭とかの蛇になっている場合が少なくない。蛇が霊力を以て神々を,また人々を護ってくれるのである。仏伝にも竜(つまり蛇)がしばしば登場する。
日本にも蛇は身近にいくらでも棲息しているが,インドではもっと多いらしい。わたしの育った寺には大きな青大将が天井に棲みついていて,しばしば姿を露すことがあった。しかも,青大将は家の守り神として大事にされていた。けして追い立てたり,いじめたりしてはいけない,と厳しく注意されていた。インドでも蛇は「霊力」をもっていて,神々や人々を守護する生きものとしてむかしから大事にされていたらしい。その教えが日本にも仏教とともに伝来してきたと考えることもできそうだ。
そして,この詩文に登場する「修行者(比丘)」にも,つぎのような注が付されている。
修行者──bhikkhu. 「乞う者」の意。漢訳では「比丘」と音写する。当時インドの諸宗教ではすべて家を出た修行者は托鉢によって食物を得ていたので,このようにいう。それのサンスクリット形 bhikqu という語は,インドのどの宗教でも用いられる。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食物を捧げるが,修行者は平然としてこれを受け,挨拶を返さない。
日本で言えば修行僧と同じだ。修行僧は同時に托鉢僧でもある。托鉢僧は家々の前に立ち,食物をいただく。だから乞食坊主という蔑称が生まれた。わたしなども子どものころには乞食坊主の息子と囃し立てられたことが何回もある。
ここでわたしの目を釘付けにするのは,「修行者は平然としてこれを受け,挨拶を返さない」というところだ。これは,日本の托鉢僧も同じである。お経を唱えながら玄関口に立ち,その日の食物を乞うのであるが,「挨拶」はしない。黙ってそのまま右回りをして立ち去る。
なぜ,挨拶(お礼の挨拶)をしないのか。答は簡単である。修行者(托鉢僧)は「この世とかの世をともに捨て去っている」からだ。つまり,世俗の価値観を超越した存在であるからだ。だから,食物を乞うても,いただけないものはいただけない,いただけるものはいただく,ただそれだけ。どちらの場合でも黙って立ち去るのみだ。蛇が脱皮するように世俗も来世も捨て去るということは,すでに,人間ではない,ということだ。つまり,人間の<外>にでてしまった存在だ,ということだ。もう一歩踏み込んで,バタイユ的な解釈をしておけば,人間性を捨てて,かつての動物性の世界にもどった,と考えることも可能だ。つまり,「水の中に水があるように」存在する,ということだ。
ここに至って想起されるのが『冥土めぐり』(鹿島田真希作)に登場する奈津子の夫の立ち居振る舞いである。とくに,脳の発作がおきて障害者となってからの夫の姿勢は,まさに,この修行者と同じだ。他人に親切にしてもらってもなにも言わない。食べ物をもらってもお礼も言わない。そして,ただひたすら美味しそうに食べる。それがごく当たり前のように振る舞う。それでいて見ず知らずの周囲の人たちにもすぐに好かれてしまう。そして,ごく自然に,すぐに周囲の中に溶け込んでしまう。なぜなら,周囲の人たちを傷つけることもしないで,ごくごく自然体で生きているからだ。あるがままに。空気のように。障害者である夫がそういう存在であるということに気づいた瞬間から,奈津子のこころは翻転する。わたしがこの人の世話をしているのではない。この人のお蔭でわたしが癒されている。生きるということの原像をそこにみとどける。こうして,奈津子は目覚めた人となる。
これが『冥土めぐり』を読み終えたときの,正直なわたしの読後感であった。だから,わたしは『冥土めぐり』を読み終えた瞬間から,そうだ『ブッダのことば──スッパニバータ』を読もうと決めていた。そして,それは間違いではなかった。
しばらくは,『ブッダのことば──スッパニバータ』を手放すことはてきそうにない。どのページを開いても,ハッとさせられる詩文でいっぱいである。ルクレジオの『物質的恍惚』とも通底するものがある。もちろん,バタイユの『宗教の理論』や『内的体験』とも,深いところでつながっている。座右の書に加えることにしよう。そして,折あるごとに開いてみることにしよう。もちろん,ひとり旅には必携である。
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