Friday, November 1, 2013

「観天望気」って知ってますか,と問われて・・・・。

 明日(4日),奈良の鳥見山(とみやま)に登りたくて,いま桜井市のホテルにいます。さっきまで,奈良在住のTさんファミリーと一緒に食事をしていました。その席で,Tさんファミリーの小5のMちゃん(お嬢さん)から,「カンテンボウキ」って知ってますか,と問われ慌ててしまいました。こんなときは躊躇してはいけないと判断し,正直に「知りません」と答ました。

 すると,ヒントを出すので,考えてみて,という。「カンテン」は漢字で書くと「観天」,では,その下につく「ボウキ」はどんな漢字でしょう,という。

 さて,困ったことになった,と真剣に考えました。わたしの頭のなかにはなんの予備知識もありません。まっさらです。そこにTさんが「四字熟語」です,とヒント。そこからスイッチが入りました。「観天」の下につく「ボウキ」の漢字を,つぎつぎに当てはめてみました。どれもぴったりする二字が浮かんできません。しかし,何回も口のなかで「カンテン,カンテン」と繰り返しているうちに,「観天」という以上は「ボウキ」の「キ」は「気」に違いないと見当をつけ,ならば「ボウ」にはどんな漢字を当てればいいのか,とあれこれ考えました。ここにくる「ボウ」は「忘」ではないだろう,ならば「望」に違いない,とひらめきました。そこで思い切って「望気」と答えてみました。すると,なんと,それで正解だといいます。応答したわたしの方がびっくり仰天でした。

 「観天望気」は,小5の理科の教科書のなかの「気象・天気」を学ぶ単元のなかの囲み記事として書かれていたとのこと。そこには,太陽に二重の傘がかかると明日は雨になるとか,つばめが低く飛ぶと雨になるとか,の事例が書いてあって,科学的根拠はないけれども,むかしから言い伝えられてきた,天気を予想する言い習わしのこと,と書いてあったそうです。

 Mちゃんは,そのことにとても興味をもち,もっと詳しいことを知りたいと思い,本屋さんを探してみたが,その種の本はみつからなかった,とのこと。

 こんな話を聞きながら,わたしは三橋美智也の歌を思い出していました。
 「夕焼け空はまっかっか,とんびがくるりと輪を描いた,ホーイのホイ,そこから東京が見えるかい,見えたらここまで降りてきな・・・・・」
 そうだ,「夕焼け空がまっかっか」も「とんびがくるりと輪を描いた」も,みんな「観天望気」だなぁとひとりむかしのことを懐かしく思い出していました。

 と同時に,「夕焼け空がまっかっか」と歌ってみると,もうそれだけで気分がよくなり,明日はいいことがあるに違いない,と楽しくなったことも思い出していました。「とんびがくるりと輪を描いた」とくれば,これまた明日は今日よりももっといいことがあるに違いない,とそんな気分になったこともこころを過(よぎ)りました。ということは「観天望気」とは,たんなる天気予報だけではないぞ,と思い至ります。むしろ,天気のことを考えつつ,明日はなにをしようかというほのかな「希望」や「望み」のようなものを抱かせることも含んだ四字熟語ではないか,と気づきます。つまり,天を仰ぎ見(観)ながら,みずからのこころが動く,そのことを言っているのではないか,ととっさに考えました。そうです。天の「気」と我の「気」との微妙な関係性のことではないか,と。

 だとしたら,天気(観天)という宇宙のマクロ・コスモスと,望気という人間のミクロ・コスモスとが接する境界領域(「時空間」)に起こるトータルな現象のことを意味していることになるではないか,と。それは,おそらくは,アートの世界も同じで,そんなマクロ・コスモスとミクロ・コスモスとの境界領域に無限に広がる「時空間」こそが,アートがひろがる根源的な「場」ではないのか,と。このことは,スポーツの世界にも通底しているではないか,と。そんな思い,連想がつぎつぎに生まれ,いやはや「観天望気」とは単なる天気予報の言い習わしでは納まらない,人間の存在論にもかかわる無限のひろがりがそこにあることがわかってきます。

 とまあ,こんな話をしながら大いに盛り上がりました。今夜は小5のMちゃんのクイズに触発されて,とんでもない無限の世界に遊ぶことができました。ありがたいことでした。Mちゃん,謝謝。

 
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