Saturday, December 29, 2012

年賀状・雑感。

 正月の楽しみは,なんといっても賀状を読むことからはじまります。日頃,ご無沙汰している人からの賀状はとくに楽しみです。ああ,みんな元気にやっているんだ,と安心もします。

 なのに,昨年末には身辺に想定外のことが起こり,とうとう年賀状を欠礼してしまいました。少なくとも成人してから初めてのことでした。いつものように賀状をくださった方々にはたいへん申し訳ないことをした,といまも反省しています。

 ですから,ことしこそきちんと年賀状を出そうとこころに決めていました。が,情けないことに,ことしもとうとう間に合わず,正月になってからとりかかることになってしまいました。残念。

 ことしも,すでに,「喪中につき・・・」というご挨拶状をたくさんいただきました。考えてみれば,わたしもことしは「喪中」の人でした。ですから,賀状は控えるべきか,としばらく考えもしました。しかし,天寿をまっとうした人の場合には,むしろ誇りに思うべし,祝うべしとみずからに言い聞かせ,賀状を出そうと決めました。喪中でも賀状を出すことについては,賛否両論があることも,新聞などで読んで承知しています。そこで,一般論はともかくとして,自分にとって賀状とはなにかと考えました。その結論は,ただでさえ人と人とのつながりが希薄化している時代であるからこそ賀状を出すべし,というのがひとつ。もうひとつは,加齢とともに交際範囲もどんどん減っていく現状を鑑み,賀状は出すべし,というところに落ち着きました。

 それよりも,賀状の内容をどうするか,といろいろ考えてきました。
 若いころには,時間に余裕があったわけでもないのに,何日もかけて版画を彫り,それも何色もの色を重ねる凝った賀状にこだわっていました。また,そういう版画好きの仲間もいて,お互いに交換することを楽しみにもしていました。うーん,あいつ,腕を上げたなぁ,とか。ことしは手抜きをしたなぁ,とか。たぶん,お互いにそんな感想を共有していたのだろう,といまになっては懐かしい思い出です。が,そういう仲間もいつのまにか,出来合いの印刷賀状になり,表書きもパソコン印刷。そこに,ひとことふたこと添え書きがありました。その添え書きも,最近はなくなり,なんとも味わいのない賀状になっています。いまでは,その人の痕跡はどこにも見当たりません。せめて宛て名書きくらいは,手書きで書いてくれればいいのに,などと思ったりしています。そうすれば,相変わらず元気な字だから当分は大丈夫だろう,と想像することもできます。あるいは,字に力がなくなってきたなぁ,ことしは一度,顔をみにでかけようか,と思ったりすることもできます。が,パソコン印刷は,そういう情報もありません。

 人のふりみてわがふり糺せ,といいます。が,情けないことにわたしも,版画はとうに諦め,宛て名書きも毛筆から万年筆に,そして,いまではボールペン。ただ,出来合いの印刷だけはなんとか回避して,自分で文案を考え,パソコン印刷。そこに,干支のゴム印を押して,少しだけ体裁を整えるよう努力しています。さらに,できるだけ,その人に向けた気持ちを籠めたメッセージのある添え書きを書き込むことにしています。が,それでも,いつのまにかマンネリ化してしまい,同じパターンの繰り返しになっています。

 ことしも,そこから大きく抜け出すことはできそうにありませんが,なんとか頑張って毛筆で宛て名書きをすることに挑戦してみようと思っています。筆で文字を書くことは嫌いではありませんので,このあたりから,ことしは少しだけ自分を変えていこうかと考えています。

 気がつけば,戦後民主主義と同時に日本の社会に導入された「生活の合理化」の考え方,すなわち,数量的合理主義,効率主義に,わたし自身のライフ・スタイルも完全に毒されてしまっている,という次第です。その結果は,たとえば,年賀状の書き方に象徴的に現れている,というわけです。そこから抜け出すライフ・スタイルへの挑戦,その第一歩として毛筆の宛て名書きを,という次第です。

 賀状を手にとって,何秒,その人の目で眺めてもらえるか,そして,喜んでもらえるか,そこに思いを籠めて。表書きで「何秒」,裏の挨拶文で「何秒」,じっと眺めてもらえるに値する賀状をめざしたいと思います。できることなら,ひととおり全部の賀状を見終わったあとも,ふたたび,抜き出してきて,眺めてもらえたら・・・・などと夢想しています。

 賀状もまた「贈与」(マルセル・モース)の一種です。そう考えると,賀状なんか,などとないがしろにすることはできません。やはり,なんらかの意味が,このせちがらい現代社会にあっても,持ちつづけているからこそ賀状の交換はいまもなされるのだと思います。そして,そこに形骸化の波が押し寄せてきていますので,この波を押し返して,もっと「贈与」(Gift)としての「毒」(霊魂)を盛り込もう,という次第です。

 これもまた「根をもつこと」(シモーヌ・ヴェイユ)のひとつの重要な営みではないか,と。ヴェイユのことばを借りれば,まさに「魂の欲求」を根づかせるための「義務」である,と。

 賀状をこんなところから,もう一度,考え直してみようと,いまのいま,考えているところです。

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